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木村 義徳(きむら よしのり、1935年(昭和10年)5月2日 - )は、将棋棋士。東京都出身。加藤治郎名誉九段門下。棋士番号82。 ==戦績== *早稲田大学第二文学部在学中の1956年にアマチュア名人・学生名人を獲得。 *1959年に三段で奨励会入り〔現行の三段リーグ編入制度に基づくものではない。〕。 *第27期(1972年度)順位戦でB級2組において成績不振により降級点を喫する。しかし、翌期には好成績を修め抹消した。 *第20期(1978年度)王位戦で予選を勝ち抜きリーグ入り。土佐浩司〔土佐は当時十段戦で難関の予選を通過しリーグ入りするなど有望視されていた若手であった。〕を撃破する活躍を見せたが、土佐からの1勝のみで陥落となってしまった。 *第37期(1978年度)順位戦でB級2組からB級1組に昇級し、翌期も連続で昇級して初のA級入りを果たした〔この経験を著書『弱いのが強いのに勝つ法』にまとめている。同書によると、それまで木村が得意としていた振飛車戦法は、必然的に長期戦となるため(大山康晴のような)「強者」が勝つための戦法だという。「弱者」が「強者」に勝つには、短期決戦となるべく急戦を仕掛けるべきだとし、実際この「連続昇級」の際には振飛車党から居飛車党に棋風を改造したという。〕。B級2組以下で降級点を喫した経験のある棋士がA級に昇進したのは史上初で、第70期(2011年度)に至るまでも木村のみである。 *当時44歳での初のA級昇級は新記録であったため、1980年の将棋大賞で木村は殊勲賞を受賞した。だが、第39期と第40期ですぐに2期連続降級してB級2組に戻ってしまった。 *第40期B級1組順位戦では、1期の間に2度の反則負けをしてしまった(2手指し、馬の動かし間違い)。また当期は1局目から9局目まで連敗し、前期A級順位戦の9戦全敗と併せて順位戦18連敗となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村義徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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