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木村駿吉[きむら しゅんきち] 木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月12日(慶応2年10月6日) - 1938年10月6日)は、日本海軍の軍属(教授、技師)、教育者、特許弁理士。 ==経歴== 幕臣・木村芥舟の三男として江戸で生まれた。東京大学予備門を経て、1888年7月、帝国大学理科大学物理学科を卒業し、さらに大学院で学ぶ。第一高等中学校教諭を務めた後、1893年8月から1896年7月までアメリカに留学し、ハーバード大学院・イェール大学で学んだ。 帰国後、1896年9月から第二高等学校教授を務めた後、1900年3月、海軍に奉職し、海軍教授・無線電信調査委員となった。以後、イギリス出張、海軍技師・横須賀工廠造兵部員、ドイツ出張、無線電信改良委員、艦政本部員兼造船廠電気部員を歴任し、1914年3月に免官となった。 海軍時代の最大の功績は、艦船用無線電信機の開発に貢献したことである。グリエルモ・マルコーニが無線電信を発明してからしばらくして、逓信技師・松代松之助が無線電信について研究を始めた。それを見学した外波内蔵吉海軍中佐が山本権兵衛海軍大臣に進言し、海軍においても研究を開始することとし無線電信調査委員会が設置され、兄・木村浩吉の仲立ちでその委員に任命された。委員会は、3年以内に80海里の距離間で使用できる無線電信を開発することを目標に掲げた。1901年末には目標を達成し、さらに寝食を忘れて改良に努力した結果、駿吉たち関係者の努力が実り1903年に三六式無線電信機が制式採用された。この無線機により「信濃丸」のバルチック艦隊発見が通報され、また、日本海海戦中も艦船間の情報交換が可能となり、その勝利に貢献した。 海軍退職後に、日本無線電信電話会社取締役となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村駿吉」の詳細全文を読む
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