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木藤しげる : ウィキペディア日本語版
木藤茂[もくどう しげる]

木藤 茂(もくどう しげる〔キネマ旬報社, p.584.〕〔揚幕社, p.36-37.〕〔''木藤茂''、''jlogos.com'', エア、2013年3月5日閲覧。〕〔''木藤茂''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月27日閲覧。〕、1901年11月11日 - 1983年3月31日)は、日本の映画監督、脚本家、元俳優である〔〔〔〔〔''木藤茂''日本映画データベース、2013年3月5日閲覧。〕〔''木藤茂''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月5日閲覧。〕〔''木藤茂''日活データベース、2013年2月27日閲覧。〕。本名松本 房雄(まつもと ふさお)〔〔〔。溝口健二の現存する最古の映画『ふるさとの歌』に主演した俳優であり〔ふるさとの歌 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月27日閲覧。〕、溝口に師事して監督に転向した〔〔。
== 人物・来歴 ==
1901年明治34年)11月11日東京府東京市本所区入江町(現在の東京都墨田区)に生まれる〔〔〔。『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、2年早い生年月日が記されている〔。
1913年(大正2年)3月、東京市二葉高等小学校(現在の墨田区立二葉小学校)を卒業し、満11歳のときに浅草区公園六区(現在の台東区浅草)にある映画館の看板描きに弟子入りする〔。翌1914年(大正3年)には、新派の小柳龍の一座に女形として参加、満12歳で初舞台を踏み、東京近郊を巡業した〔。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の田中純一郎の記述によれば、同年、小柳の一座は解散し、新派の正木秀夫(正木秀雄)の一座に参加して、地方を巡業したとあるが〔、『現代俳優名鑑』によれば、正木秀雄に師事したのは1917年(大正6年)で、満16歳を迎える同年、長野県松本市で初舞台を踏むと記されている〔。
次に日活向島撮影所で映画に出演する経緯であるが、『日本映画俳優全集・男優編』では、正木の紹介で1915年(大正4年)に同撮影所の女形・藤川三之助(本名 平田三弥、藤川三之祐とは別人〔キネマ旬報社, p.502-503.〕)と出会い、同年2月に公開された『瀧の白糸』(監督細山喜代松)にエキストラとして出演して、映画界にデビューしたとしている〔。『孝女白菊』(1916年)、『浮かれ胡弓』(1917年)等に出演するうちに、1919年(大正8年)4月21日に公開された『生さぬ仲 前篇』(監督小口忠)に出演したことを契機に、藤川の紹介で「子役・女形」として同撮影所に入社したとある〔。『現代俳優名鑑』によれば、1918年(大正7年)に入社、とある〔。
1922年(大正11年)12月30日に公開された田中栄三監督による大作『京屋襟店』、1923年(大正12年)2月4日に公開された溝口健二の第1回監督作品『愛に甦る日』に出演して、頭角を現した〔。同年に発行された『現代俳優名鑑』では、本所区松坂町1丁目9番地(現在の墨田区両国)に住み、身長は5尺2寸(約157.6センチメートル)、体重12貫800匁(約48キログラム)、将来は山本嘉一藤野秀夫の指導を得て活躍したい旨を語っている〔。同年9月1日に起きた関東大震災で同撮影所は壊滅、全機能を日活京都撮影所(日活大将軍撮影所、現存せず)に移し、現代劇を製作する第二部を創設した際に、木藤も異動している〔〔〔〔。1925年(大正14年)2月26日に公開された『貧者の勝利』(監督三枝源次郎)では、木藤の書いた脚本が採用されている〔〔〔。
1927年(昭和2年)、演出部に転向、溝口健二、阿部豊に師事して演出助手(助監督)を務め、村田実の推薦で監督部に異動になり、同年4月17日に公開された『A38号室』を演出して、満25歳で映画監督としてデビューする〔〔〔。1929年(昭和4年)には撮影所移転のため、日活太秦撮影所(のちの日活京都撮影所、および大映京都撮影所、現存せず)に異動する〔〔〔。1933年(昭和8年)1月10日に公開された『恋すればこそ』は、本名の「松本 房雄」名義で監督したが〔〔、同作を最後に日活を離れた〔〔〔。
4年のブランクの後、新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に入社、1937年(昭和12年)2月3日に公開されたトーキー佐賀怪猫伝』を監督して復帰〔〔、同作は大ヒットを記録した〔東映京都撮影所 立命館大学、2013年3月5日閲覧。〕。以降、時代劇に転向し、同年6月17日に公開された『いろは仮名 四谷怪談』は『四谷怪談』ものの初のトーキー作品となった〔、2013年3月5日閲覧。〕。鈴木澄子を主演に多くの映画を監督したが、 満40歳を目前にした1941年(昭和16年)9月28日に公開された『紅葉狩』を最後に、以降の監督および出演の記録は見当たらない〔〔。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)5月に、梅野井秀男一座・市川男女之助一座・新生劇の3派が合流して結成した「新興新派」の京都座での結成第1回公演において、堤千代の原作を川口松太郎が脚色した『小指』の演出を、木藤が行なった記録がある〔国立劇場, p.143.〕。
晩年は、東京都小平市花小金井南町に居住し〔、1983年(昭和58年)3月31日老衰のため自宅で死去した〔〔川部, p.124.〕。満81歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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