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木谷千種[きたに ちぐさ] 木谷 千種(きたに ちぐさ、1895年(明治28年) - 1947年(昭和22年)1月24日)は、大正時代から昭和時代の日本画家。 == 来歴 == 池田蕉園、野田九浦、北野恒富及び菊池契月の門人。1895年、大阪府大阪市北区堂島の唐物雑貨商の家に生まれる。本姓は吉岡、本名英子。近松研究家の木谷蓬吟の妻。12歳の時、渡米し2年間シアトルで洋画を学んでいる。また、大阪府立清水谷高等女学校在学中より深田直城に師事、花鳥画を学んだ。1909年、帰郷するが、7月の天満焼けにより、堂島の自宅を焼失したため、東京に移住しており、1912年から3年間、日本画家の池田蕉園に師事している。吉岡千種の名前で1912年の第6回文展に初入選を果たすと、主として女性を題材にした作品で活躍している。その後、再び関西に戻り池田室町に住む叔父の吉岡重三郎のもとに寄寓した。この叔父は小林一三を助け、宝塚少女歌劇団の創立や阪急電鉄の発展などに尽力した人物で、千種はこういったモダンな環境のもとで、本格的な絵画活動を行っていたようであった。大阪では野田九浦、北野恒富にも入門し、美人画などを学んでいる。1915年、第1回大阪美術展覧会に「新居」を出品したほか、第9回帝展に出品した「針供養」において帝展初入選をしている。1916年には島成園、松本華羊、岡本更園とともに「女四人の会」を結成している。また1919年には一時京都に居を移し、菊池契月の教えも受けた。1920年、浄瑠璃研究家の木谷蓬吟と結婚する。同年、大阪の自宅に女性を対象とした画塾「千種会」を設立し、後進を指導、千種会展を開催、作品を発表している。1925年開催の第6回帝展で「眉の名残」が入選する。1947年1月24日、大阪府南河内郡にて死去。 享年51。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木谷千種」の詳細全文を読む
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