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本並 健治(ほんなみ けんじ、1964年6月23日 - )は、大阪府枚方市出身の元サッカー選手、解説者、サッカー指導者。選手時代のポジションはGK。Jリーグではガンバ大阪、ヴェルディ川崎に所属していた。 == 経歴 == === 松下/ガンバ時代 === 大阪商業大学卒業後の1986年、ガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に入団。松下時代は1学年上の慶越雄二の控えであったが、慶越の移籍もあって正GKの座を奪取。 1993年のJリーグ発足後より、度々見せる鋭い反応や、自陣のぎりぎりまでも飛び出す攻撃的な姿勢が注目を浴び、人気選手の1人となる。当時のG大阪は弱小チームであり、守備の弱さから本並の出番は多かった。 ;突然の大怪我と選手生命の危機 7月7日のサンフレッチェ広島戦において、後半終了直前のコーナーキックの競り合いで田口禎則と激しく接触し〔、腎臓破裂の重傷を負う〔。試合は、延長開始直後にVゴールを決められ、ガンバが敗れて終了したが、「仮に延長戦が続いていたら助からなかっただろう」と診断されたほどの大怪我だった。本並は既に選出されていたJリーグオールスターの出場キャンセルは勿論、選手生命はおろか命の危機に晒されることとなった。手術では腎臓の4分の1を摘出した〔。 だが驚異的な回復力を見せ、7ヶ月後の翌1994年サントリーシリーズには再び正GKとしてピッチに立つ。ファルカンが監督を務めていた日本代表に選出されたのもこの年である。デビュー戦であるキリンカップのフランス戦では、後半から出場し、トンネルを含む2失点(後半からの出場、試合結果は1-4〔http://samuraiblue.jp/timeline/19940529/〕)を喫し、その後出場した2試合(1994年7月のアシックスカップのガーナとの2試合)でどちらも失点すると、以後代表から声は掛からなくなり、結局代表キャップは3に留まった。 クラブではその後もチームの顔として活躍し、1995年には日刊スポーツ紙上の「ミスター GAMBA 銀の脚」賞、1996年には「ミスター GAMBA 黄金の脚」賞を受賞。しかしヨジップ・クゼ監督との確執から、1996年の中盤以降は正GKの座を岡中勇人に明け渡し、出場機会が激減していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本並健治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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