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朱慈炯[しゅ じけい] 朱 慈炯(しゅ じけい、1631年9月28日 - 1644年?)は、明末期の皇族。崇禎帝の三男で生母は周皇后。 崇禎5年8月15日(1631年9月28日)に生まれ、崇禎14年(1640年)に父より定王に封じられる。しかし李自成の反乱で北京が落とされた際に行方不明になった。崇禎帝が自殺する際に殺されたとも、反乱軍に殺されたともいわれた〔甲申年6月28日劉沢清上摂政王ドルゴン奏折〕。後に南明において定哀王と諡された。 == 僭称者の出現あるいは明滅亡時死亡説への疑義 == 康熙18年(1678年)、湖南新化で安親王(ヌルハチの七男の子)が、一人の僧を捕虜にした。法廷で、僧は定王を自称し、崇禎帝の宮中の事情を詳しく述べた。その後、康熙帝は「定王は混乱から逃れ出ることができず、少年時に死亡した」と断定した。僧は処刑された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱慈炯」の詳細全文を読む
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