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李復言 : ウィキペディア日本語版
李復言[りふくげん]
李復言(りふくげん)は中唐の文士。伝奇小説集『続玄怪録』の著作があり、同集の現伝諸則から少なくも憲宗元和から宣宗大中に掛けて(およそ西暦9世紀前半)に在世した人物と推定されるが不詳。『続玄怪録』中の「張質(ちょうしつ)」〔宋刻4巻本『続幽怪録』巻2所収、『太平広記』巻380所引。〕の末では作者自身に擬せられる彭城県の知事李生が元和6年(811年)にこの話(張質)を聞いたとあって、また「辛公平上仙(しんこうへいじょうせん)」〔宋刻4巻本巻1所収。〕の末でも文宗太和初年(820年代末)に李生が同県の知事であった時にこの話(辛公平上仙)を聞いたとあり、「張老(ちょうろう)」の末では太和の初めに塩鉄院を司った(塩鉄使?)李公が「余に命じて」この話(張老)を記録させたとあり〔明陳応翔(ちんおうしょう)刻4巻本『幽怪録』巻1所収。この則は太和の初め云々の末1条を欠いているものの『太平広記』巻16に「続玄怪録に出づ」として引かれており、それと照らし合わせて元来は『続玄怪録』中の1則であったと考えられている(後掲溝部良恵「続玄怪録(抄)解説」)。〕、「尼妙寂(にみょうじゃく)」〔『太平広記』巻128所引。〕の末尾では、復言は隴西の出で太和4年(830年)に巴南に遊び、そこでこの話(尼妙寂)〔恐らくは李公佐の『謝小娥伝』か、その材となった事件の話。〕を聞いたと述べている。
以上から得られる僅かな情報からその正体に就いて以下の3説が唱えられている。まづ、徳宗貞元(785年から805年)から太和に掛けての政治家李諒に比定する説で、これが最も有力視されるが〔今村与志雄訳『唐宋伝奇集(下)』(岩波文庫、1988)の「同宿の客(辛公平上仙)」訳注。〕、諒は貞元16年(800年)の進士で太和4年(復言が巴南に遊んだ年)の7月に京兆の尹からに転じた人物といい〔卞孝萱説。与志雄前掲訳注に拠る。〕、この場合、『続玄怪録』は牛僧孺の『玄怪録』に続く意図で編まれたものとされるので〔晁公武『郡斎読書志』。〕、諒が僧孺よりも年長である点に疑点があり〔諒が代宗の大暦10年(775)の生まれなのに対し、僧孺は徳宗建中元年(780)の生まれで貞元21年(805)の進士。〕、また、『続玄怪録』中に諒の卒後である大中初年(元年は847年)の話もあって〔「麒麟客」(宋刻4巻本巻1所収、『太平広記』巻53所引)。諒は太和7年(833)卒という(前掲孝萱説)。〕更なる検討が求められる〔溝部良恵『広異記・玄怪録・宣室志他』(中国古典小説選6)「続玄怪録(抄)解説」、明治書院、2008年。〕。次に、文宗の開成5年(840年)に科挙に応じた人物と見る説がある。北宋の(せんえき)『(なんぶしんしょ)』に、開成5年の科挙で行巻として『纂異』という「虚妄」に亘る書を提出したところ批判を受けて応挙を諦めた李復言という人物が見えるので、この人物こそが該当しこの時の『纂異』が即ち『続玄怪録』であろうとするものであるが〔程千帆説。与志雄前掲訳注に拠る。〕、この場合は上記「張質」の李生を作者と仮定すると、元和6年時点で(恐らく科挙に及第して)県知事であった者がその30年後に再度科挙に応じた事になって直ちには受け容れ難く〔前掲良恵解説、与志雄訳注。〕、抑も行巻に伝奇小説を呈上しても意味が無いとの批判がある〔黒田真美子『枕中記・李娃伝・鶯鶯伝他』(中国古典小説選5)「唐代伝奇について」、明治書院、2006年。〕。最後に上記「張老」を録した「余」と見る説で、そこに登場する李公を上記諒に当て、復言をその部下と見るものであるが〔李剣国説。良恵前掲解説に拠る。〕、これも推測の域を出ず結論としては未だ特定には至っていない。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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