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村上専精[むらかみ せんしょう] 村上 専精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851年5月1日) - 昭和4年(1929年)10月31日)は、日本の明治・大正期に活躍した教育者、仏教史学者。 明治・大正期の教育界において主として高等教育の充実に尽力。特に、仏教思想・仏教史を近代的学問体系からの批判に耐え得る形で研究するとともに、その成果を自ら整備に関与した公私の諸教育機関において公開した。 == 経歴 == 丹波国の真宗大谷派教覚寺に生まれる。本姓、広崎。幼時より漢学の才にすぐれ苦学の後、姫路善教寺の天外、新潟県無為信寺の武田行忠等に師事。1874年、京都東本願寺の高倉学寮に入るがほどなく退寮。愛知県入覚寺の養子となり村上姓に改姓。1880年、再び京都に出て東本願寺の教師教校に入学、2年後には同寺の学階を得て真宗大学寮で講義を担当するに至った。 1887年、東京の曹洞宗大学林(現、駒澤大学)に招聘されて講師に就任。同年、 井上円了が設立した哲学館(現、東洋大学)の講師を兼任する傍ら、同哲学館において哲学科の学生となる。翌年、東京帝国大学文科大学のインド哲学の講師となり、1905年、東洋高等女学校(現、東洋女子高等学校)を創設、1917年には、東京帝国大学印度哲学科の初代教授に就任した。翌年、帝国学士院会員となる。1923年、東京帝国大学名誉教授。 1926年 - 1928年の間、大谷大学学長をつとめた。 この間、1894年、鷲尾順敬・境野黄洋らと雑誌『仏教史林』を創刊し、1897年、『大日本仏教史』を刊行、1926年、 辻善之助らと『明治維新神仏分離史料』を編纂・刊行するなど、近代的な仏教史研究に大きく道を開いた。また、1901年、永年の仏教思想研究の成果に客観的方法論を導入して『仏教統一論』を著し、大乗非仏説を提起、大きな反響を呼んだ。このため一時、所属する真宗大谷派の僧籍を離れる(還俗)ことがあったが、同派出身の南条文雄・ 井上円了・ 清沢満之らをはじめ幅広い分野の人々と交流、終始一貫、近代的な仏教研究と教育体制の充実・整備に力を注いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村上専精」の詳細全文を読む
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