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村上 恭一(むらかみ きょういち、1883年(明治16年)8月31日 - 1953年(昭和28年))は、日本の官僚。枢密院書記官長、貴族院議員等を歴任した。 ==略歴== *明治16年1883年) :8月31日 - 鳥取県鳥取市立川町出身。村上家は、代々鳥取藩の藩主池田家の御殿医として仕えた家柄であり、恭一は明治維新の勤皇の志士として有名な因幡二十士の一人、中野治平元長の外孫にあたる〔『鳥取県百傑伝』95頁〕 *明治40年1907年) :7月11日 - 東京帝国大学法科大学法律学科(仏蘭西法律兼修)卒業。 :7月12日 - 通信属、通信局勤務、外信課詰。 :11月25日 - 高等文官試験合格。 *明治41年(1908年) :2月4日 - 通信事務官、通信局外信課勤務。 :4月10日 - 叙従七位。 *明治42年(1909年) :11月13日 - 兼逓信書記官、逓信官吏練習所教官。 :12月27日 - 叙正七位。 *明治43年(1910年) :4月1日 - 逓信管理局事務官、通信局外信課勤務、兼官如故。 :7月16日 - 免本官専任逓信書記官、管船局監理課勤務、逓信官吏練習所教官兼務。 *明治44年(1911年) :6月19日 - 逓信省参事官兼逓信書記官、大臣官房秘書課長。 :9月2日 - 逓信大臣秘書官兼逓信省参事官、管船局勤務。 *大正元年(1912年) :9月30日 - 叙従六位。 :12月23日 - 逓信書記官兼逓信大臣秘書官、大臣官房秘書課長、管船局兼務。 *大正3年(1914年) :3月27日 - 叙勲六等授瑞宝章。 :7月22日 - 免兼官、免大臣官房秘書課長。 :8月28日 - 逓信局副事務官、管船局勤務。 *大正4年(1915年) :10月20日 - 叙正六位。 :12月24日 - 兼逓信書記官、管船局勤務、東部逓信局在勤。 *大正5年(1916年) :11月22日 - 逓信局事務官兼逓信書記官如故、東部逓信局勤務。 :11月30日 - 枢密院書記官兼高等捕獲審検所事務官。 *大正7年(1918年) :1月21日 - 叙従五位。 :4月22日 - 叙勲五等授瑞宝章。 *大正9年(1920年) :2月15日 - 高等捕獲審検所閉鎖。 :6月2日 - 兼行政裁判所評定官。 :6月21日 - 叙正五位。 :7月31日 - 叙勲四等授瑞宝章。 :8月21日 - 兼枢密院議長秘書官。 :9月7日 - 授旭日小綬章。 *大正13年(1924年) :9月27日 - 叙勲三等授瑞宝章。 *大正14年(1925年) :7月15日 - 叙従四位。 *昭和2年(1927年) :4月13日 - 行政裁判所評定官兼枢密院書記官。 *昭和5年(1930年) :8月1日 - 叙正四位。 *昭和6年(1931年) :3月20日 - 帝都復興記念章〔『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。〕 :9月8日 - 叙勲二等授瑞宝章。 *昭和9年(1934年) :6月15日 - 枢密院書記官長兼行政裁判所評定官。 *昭和10年(1935年) :8月15日 - 叙従三位。 *昭和11年(1936年) :12月5日 - 依願免兼官。 *昭和14年(1939年) :8月28日 - 貴族院議員(昭和22年(1947年)5月3日まで)。 :8月29日 - 依願免本官。 :9月11日 - 叙正三位。 :10月26日 - 叙勲一等授瑞宝章。 *昭和15年(1940年) :4月29日 - 授旭日大綬章。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村上恭一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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