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村上文祥 : ウィキペディア日本語版
村上文祥[むらかみ ぶんしょう]
村上文祥(むらかみ ぶんしょう、1932年 - 1999年4月17日)は、囲碁のアマチュア棋士広島県出身。全日本アマチュア本因坊戦優勝5回、朝日アマ囲碁十傑戦優勝6回等、アマチュア強豪として知られ、アマ四強と呼ばれた一人。世界アマチュア囲碁選手権戦では、第1回(1979年)4位、第3回(1981年)3位。強烈な攻めの碁風。荏原製作所代表取締役副社長などを務めた。
==経歴==
因島市生まれ、村上水軍の末裔という。小学3年の時に、入院中の父のために碁を並べて見せたことで、囲碁を覚える。中学時代にはプロ棋士の関山利一九段が岡山県の疎開先で開いていた研究会通った。この頃、向井一男七段、半田道玄四段などにも教えを乞い、天下四目を自称した。早稲田大学に入学すると「西の怪物」と呼ばれ、後にライバルとなる菊池康郎は村上と対戦するために専修大学囲碁部を作って関東学生リーグに参加、全勝同士で最終戦で対決し菊地が勝利したが、村上は学生時代の大会では、この菊池戦も含めて2敗しかしなかった(村上に勝利したのは、菊池康郎のほか江島界雄(中央大学)のみである)。
大学を卒業した1955年に荏原製作所入社。1960年にアマチュア本因坊戦で優勝。翌年の高川秀格本因坊との記念対局(二子で中押勝)は、テレビで初めての囲碁対局の放送となり、翌1962年からNHK杯戦がテレビ放映となった。その後数々のアマ棋戦で優勝し、アマ四強の一角を占める。1963年には日中囲碁交流に訪中団代表として出場、6勝4敗1ジゴなど、国際囲碁交流でも活動。1979年、第1回世界アマチュア囲碁選手権戦の日本代表となり、聶衛平陳祖徳陳嘉鋭に次ぐ4位入賞。第3回には邵震中馬暁春に次ぐ3位となる。1994年、荏原製作所副社長。1996年、荏原総合研究所社長。1999年死去、日本棋院より追悼八段。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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