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村上 景親(むらかみ かげちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。小早川氏・毛利氏家臣。 == 生涯 == 天正6年(1578年)の上月城の戦いに出陣した。その後は、兄と行動を共にした。文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役では吉川広家に従って、兄共々朝鮮に渡海している。小早川隆景が隠居すると、父と兄は毛利氏に帰参したが、景親はそのまま小早川家中に残り、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。慶長2年(1597年)に小早川隆景が死去すると毛利氏に帰参して安芸国竹原に所領を得た。 慶長5年(1600年)、兄の元吉と共に水軍を率いて、蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を攻撃し、落城させた。その後は毛利軍の一員として、関ヶ原の戦いに参加した。 防長移封後、細川忠興や池田輝政も景親の武勇を見初め、家臣として誘ったが、景親はこれを辞退して父と共に屋代島に移住、毛利家御船手組の組頭となった。 慶長15年(1610年)に死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村上景親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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