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村上頼勝[むらかみ よりかつ]
村上 頼勝(むらかみ よりかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。諱は義明として流布しており、嗣子の忠勝と混同しているものが多いが、正しくは頼勝であり、親子2代である。 出自については、信濃村上氏、伊予村上氏(村上水軍)の一族ともいわれるが、いずれも根拠に乏しく、詳細は不明である。 == 生涯 == はじめ丹羽長秀に仕えていたが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、嫡男長重のもとから去って豊臣秀吉の直臣となり、加賀国能美郡に6万5000石を与えられた。その後、秀吉の命で堀秀政・秀治の与力大名となり、九州征伐、小田原征伐に従軍した。慶長3年(1598年)には越後国本庄(のち村上と改める)9万石に加増移封された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは越後に在国し、当初日和見的態度を取っていたが、最終的には東軍に与して、国内で起こった西軍方の上杉旧臣による上杉遺民一揆の鎮定に努めた。その戦功により戦後、徳川家康から所領を安堵された。医師の曲直瀬道三と交流があり、天正14年(1586年)道三に懇うて、日常生活における養生の心得を『養生和歌』として相伝していた。この養生心得は、養生要諦三ヶ条と一般的心得十七首、世上の慎み七首から構成されている〔宮本義己『戦国武将の健康法』(新人物往来社、1982年)P29-41〕。 頼勝には男子がなく、はじめ堀秀政の三男を養子として貰い受けたが早世したため(但馬守義忠と称し、22歳で卒という)、娘婿戸田内記の子の忠勝を養子にした。また、娘の一人は権大納言烏丸光広の側室となり、光賢を産んだ。
== 脚注 ==
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村上頼勝」の詳細全文を読む
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