|
村岡 儆三(むらおか けいぞう、1887年〈明治20年〉 - 1963年〈昭和38年〉2月6日)は、日本の出版業者、印刷業者。神奈川県横浜市出身。父は聖書印刷で知られる村岡平吉、妻は翻訳家の村岡花子(後妻、後述)。母方の従姉妹に社会運動家の賀川ハルがいる。 == 人物歴 == 横浜商業学校(後の横浜市立横浜商業高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父の営む福音印刷合資会社(後の福音印刷株式会社)に入社し〔、父の事業を助ける。1914年(大正3年)に同社の東京市(後の東京都)銀座進出後、銀座支店の責任者となる。1915年(大正4年)に結婚して長男をもうけるが、妻が結核を発病し、別居を余儀なくされる。 後に村岡花子(当時は安中姓)の翻訳原稿を読んで興味を抱き、花子の翻訳による『モーセが修学せし國』の印刷人を務めた縁で1919年(大正8年)4月8日に花子と出逢い、やがて恋に落ちる。同年10月24日に結婚。東京市大森新井宿(後の東京都大田区大森)を新居とする。 1922年(大正11年)、福音印刷創業25周年を機に、父の平吉から社の経営を引き継ぐ。間もなく平吉が死去し、自身は専務取締役、弟の斎(ひとし)が常務取締役となる。兄弟で父の遺志を継いで社を営もうとした矢先、翌1923年(大正12年)の関東大震災で福音印刷が倒壊。斎が死亡した上、社の役員の裏切りに遭って社の復興もかなわなくなり、倒産。別の家へ養子に行っていた先妻との間の子も震災で失い、経済的にも精神的に大きな打撃を被るが、花子の献身的な支えにより、印刷業での再起を志す。 1926年(大正15年)、片山広子、守屋東、本田増次郎らの支援を受け、自宅に小規模ながら出版社兼印刷所「青蘭社書房」を創業。女性と子供のための本を安価に提供することを趣意として、花子と二人三脚での運営を始め、花子の翻訳した書籍の出版の場ともなる〔。1930年(昭和5年)には同社機関誌『家庭』(後に『青蘭』に改題)を創刊。生活に基調を置いた「生活派」の文学を提唱し、子供も大人も楽しめる家庭文学に、花子とともに希望を込めて取り組む。その後も戦中から戦後へと続く時代を、花子とともに生き抜く。 1963年に自宅での夕食後、心臓麻痺で死去。75歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村岡敬三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|