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村岡範為馳[むらおか はんいち]
村岡 範為馳(むらおか はんいち、1853年2月14日(嘉永6年10月14日) - 1929年(昭和4年)4月20日)は明治時代の日本の物理学者。東京数学物理学会(現・日本数学会および日本物理学会)の初代会長、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)の校長、京都帝国大学教授などを務めた。請願理学博士第一号。 日本人として初めて外国の学術雑誌に主著論文が掲載されるとともに、ドイツ(当時)のシュトラスブルク大学で博士号を取得した。また、国内で初めてX線写真の撮影に成功している。近代日本の物理学分野において、教育・研究の両面で大きな役割を果たした。 == 生涯 ==
=== 生い立ち === 因幡国八上郡釜口村(現・鳥取県鳥取市河原町釜口)で生まれる。幼名は半之丞。父は村岡秀造(むらおか しゅうぞう、文政8年(1825年)生 - 明治2年10月5日(1869年11月8日)没)、旧名を太田静馬(おおた しずま)という鳥取藩士で、藩校の尚徳館に勤める医師であった〔司馬遼太郎の小説『花神』では、太田静馬として登場する。〕。 若くして父の勤める尚徳館で学ぶ。明治3年閏10月25日(1870年12月17日)に藩命を受け、明治政府が全国から集めた310名の貢進生の一人として上京し、大学南校に入学。学制改革によって校名が東京開成学校と改称されると、新設された鉱山科に編入した。1875年(明治8年)に同科を退学し、文部省に出仕し東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の教諭となる。ここで物理学を独習した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村岡範為馳」の詳細全文を読む
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