|
村崎 修二(むらさき しゅうじ、1947年 - )は猿まわし師(自称、猿曳き芸人)。山口県光市出身。「猿舞座」座長。 兄は猿まわしを復興させた村崎義正。猿まわし師の村崎太郎は甥。 息子の村崎耕平は、元俳優・脚本家で、2005年から「猿舞座」に参加し、ともに活動している。 == 来歴・人物 == 高校卒業後、東京の「舞台芸術学院」で演劇を学ぶ。卒業後は実家にかえり、詩人の丸岡忠雄に師事して、部落解放運動に携わる。県連青年部長として、演劇・音楽などの文化活動を盛んに行った。 1970年、俳優の小沢昭一がレコード『日本の放浪芸』シリーズの「猿まわし」調査のために光市を訪れた際に、兄・義正とともに小沢に面会する。当時は途絶えていた、自分たちの祖先が行っていた芸能である「猿まわし」をみつめ直すことを考え、身近にいた猿まわし巡業の経験者に、聞き取り調査を始める。 さらに小沢からの依頼で、丸岡忠雄ともに猿まわし師の実態を詳細に調査・研究し、その内容を1974年から1977年まで、小沢が主催していた雑誌『芸能東西』に「周防じょうげゆき・考」として連載する。1977年には民俗学者の宮本常一と知り合って師事し、「猿まわしの復活」を強く示唆される。 そして、宮本や、宮本から紹介された今西錦司・姫田忠義らの支援を受けて、1977年12月に「周防猿まわしの会」が結成され、初代の会長には兄・村崎義正が就任。修二は事務局長となった。 元猿まわし師の五月三郎、重岡フジ子の指導のもと、会は翌1978年7月に調教法を確立し、同年9月の光市におけるイベントで披露、猿まわし芸が復活。修二も猿まわし芸を体得する。 また、1978年~1988年の間、京都大学霊長類研究所の協同研究員として「サルの教育研究」に従事する。 1979年には、宮本からの依頼で猿まわしの民俗調査が行われ、三隅治雄、織田紘二、広瀬鎮ら学者グループと聞き込み調査を実施。伝統芸能としての猿まわしの型について、さらに深く考察する。 だが、「芸能集団としてのプロ化」を目指す兄・義正と、「民俗文化の伝承・研究」を考える修二とは対立する。 1981年1月の宮本の死去もきっかけととなり、1981年4月8日に4人のメンバーで「周防猿まわしの会」から離脱〔この事件は、村崎義正の著書『歩け!飛べ!三平』(筑摩書房)には「周防猿まわしの会の数人の若者が、サルと車を盗んで脱走した。私は7月に彼らの潜伏先を突き止め、サルと車を返させた」と書かれている。このような状況であったため、修二のグループは「芸猿もないまま、一からの活動開始」を余儀なくされた。〕。同年8月に、かつての猿まわし師たちの根拠地であった周防高森(現・山口県岩国市周東町)を拠点とする。 1982年には丸岡忠雄の支援を得て「猿舞座」を結成。五月三郎を師匠とし、「本仕込み」(猿を無理に調教するのではなく、猿と仲間的関係になって芸を行わせる手法。この手法で仕込んだ猿は『花猿』と呼ばれる。)と「里めぐり」という伝統的な猿まわしの芸態にこだわり、現在も活動を行っている。また、明治末に書かれた、東京の猿まわし師・九代目小川門太夫の残した『門太夫文書』をもとに、伝統的な猿曳き芸の継承を行っている。 1991年ごろからは、大道芸の「浅草雑芸団」(上島敏昭代表)とともに、巡業を行っている。 2007年5月には、1994年から13年間コンビを組んだ相棒のサル、二代目安登夢(あとむ、当時15歳)が引退した。 また、フォークシンガーとしての活動を始めており、高石ともや(1972年から交流がある)とのジョイント・ライブ等を行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村崎修二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|