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村沢高包 : ウィキペディア日本語版
村澤高包[むらさわ たかかね]
村澤 高包(むらさわ たかかね、1749年寛延2年) - 1837年天保8年)11月8日)は、江戸時代後期の篤志家和算家。通称は文右衛門(久右衛門とも)。
== 生涯 ==
信濃国更級郡今里村の和算家篤志家村澤布高の長男として生まれる。村澤家は豪農で、江戸時代初期には今里に在ったという。幼い頃から祖先と父・布高を手本として質素倹約に励み、貯蓄を始めた。それは凶作に苦しむ農民を救う為であった。また、貧しさに苦しむ人々を助ける為に医学を修め、医薬を貯蔵し、報酬を求めず治療に当たり、布高から数学を学んで門人となり、小県郡別所観音への算額奉納などもしている。
1783年(天明3年)、天明の大飢饉で村人が租税困難となった際、蔵の米で村の公租を代納しつつ、困窮に喘ぐ人々に蓄えてあった銭を与える救貧活動を行った。1789年(寛政元年)に祖父が亡くなると、凶作に備えるべく、金百両、米百石をお上に寄付して祖父の遺志を果たした。高井郡小沼村では、1804年(文化元年)より洪水被害に苦しんでおり、それを救う為、紐に通した銭三万貫を出し、そして1808年(文化5年)には、凶作で宿駅の負担に喘ぐ水内郡牟礼村に金500両を出した。
1808年(文化5年)、長年に渡る慈善活動の数々と、藩政への貢献によって苗字帯刀を許され、郡名である更級を名乗る事を許された。
1810年(文化7年)に隠居。晩年は快徹(徹翁とも)と号し、医術と薬剤によって人々を救い続けつつ、近隣郷の子弟達の算術の先生となった。
1837年(天保8年)没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「村澤高包」の詳細全文を読む



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