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東山学院(とうざんがくいん、Steele Memorial Academy)は明治時代から昭和初期にかけて、長崎県長崎市にあったアメリカ・オランダ改革派教会系のミッションスクールである。 長崎に赴任したアメリカ・オランダ改革派教会のヘンリー・スタウト宣教師は、明治5年(1873年)に佐賀藩の藩校広運館の教師を辞任して、夜間の英語塾を始め、聖書と英語を教えた。広運館の生徒が10人ほど集まった。 1881年(明治14年)に日本基督一致教会の西部中会が設立されると、スタウトは、ユージーン・ブース宣教師や青山昇三郎らと神学校管理委員会を設立して、神学校の設立に向けて動き出した。 1884年(明治17年)に来日した婦人宣教師メリー・E・ブロカウが女子学校(後に梅香崎女学校から下関梅光女学院を経て現在の梅光学院)を整備して、1886年(明治19年)に来日したアルバート・オルトマンスが男子校を整備して、1887年(明治20年)にスティール・アカデミー神学部を設立した。東山学院は神学部と普通部の2部で構成された。神学部に進むためには、普通部で一般教養を学ぶ必要があった。 初代院長はオルトマンスがなった。1891年(明治24年)には最初で最後の日本人院長大儀見元一郎が院長になった。大儀見院長時代の1892年(明治25年)頃に東山学院と呼ばれるようになった。 1895年(明治28年)よりスタウトが3年間アメリカに戻っている間に神学部の生徒が激減する。1897年(明治30年)には神学教育が中止される。 1905年(明治38年)にはアルバートス・ピータースが校長に就任し、1910年(明治43年)まで務める。 1932年(昭和7年)に財政難のために明治学院第二中学部東山学院となった後、翌年1933年(昭和8年)に閉校する。生徒は鎮西学院に移った。跡地には長崎カトリック神学院が一時的に入ることになった。 == 主な出身者 == *都留仙次(明治学院院長) *益富政助 *日高善一 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東山学院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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