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東常縁[とう つねより]
東 常縁(とう つねより)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人。美濃篠脇城主。官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される。生年については、応永12年(1405年)説、同14年(1407年)説もある。 東氏は千葉氏一族の武士の家柄であったが、先祖の東胤行は藤原為家の娘婿にあたり、藤原定家の血を受け継いでいる。 == 生涯 == 室町幕府奉公衆として京都にあり、冷泉派の清巌正徹にも和歌を学ぶが、宝徳2年(1450年)、正式に二条派の尭孝の門弟となる。康正元年(1455年)、関東で享徳の乱が発生、それに伴い下総で起きた本家千葉氏の内紛を収めるため、8代将軍足利義政の命により、嫡流の千葉実胤・自胤兄弟を支援し馬加康胤・原胤房と戦い関東を転戦した。だが、古河公方足利成氏が常縁に敵対的な介入を図ったために成果は芳しくなかった上、同行していた酒井定隆も成氏に寝返った。 更に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の美濃郡上を守護土岐成頼を擁する斎藤妙椿に奪われた。しかし、これを嘆いた常縁の歌に感動した妙椿より所領の返還がかなった。その後、二人は詩の交流を続けたという。文明3年(1471年)、宗祇に古今伝授を行い、後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている。 常縁は古今伝授の祖として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい。家集には『常縁集』、歌学書には『東野州聞書』がある。
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