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東閭中華聖母堂 : ウィキペディア日本語版
東閭中華聖母堂[とうりょ-ちゅうか-せいぼどう]

東閭中華聖母堂(とうりょ-ちゅうか-せいぼどう)は中華人民共和国河北省清苑県東閭村(保定市の東南20キロメートル)に位置する大型のカトリック聖堂。中国大陸で教皇の認可を得た2カ所の聖母巡礼地の1つである(残る1カ所は上海市松江区佘山扶助者聖母大殿)。
== 歴史 ==

=== 起源 ===
東閭村は華北平原に位置する村落で、村人口は約9,000人、その中の約7,000人がカトリック信者であり、中国でカトリック信徒が最も集中している村落であるといえる。(山西省清徐県六合村も7,000名近くの信徒がいる〔六合村紀行,信徳報(第176期) 〕)。
1862年同治元年)当時、村の人口は2,000人でありカトリック教徒は存在していなかった。村は楊氏と蔡氏という2つの氏族に分かれていた。楊氏は比較的困窮してた生活を改善すべく、占い師の信託に従い溜池の裏にある蔡氏の仏塔を破壊した。しかしその事件は蔡氏により露見、事件に関わった楊氏は保定府に送られた。楊氏は隣村でカトリック信徒であった親戚の勧めで、の中国人司祭である劉氏を尋ね、カトリックへの入信を求めた。彼らは劉神父の頒布していた教理書を入手、研鑽し、半年後の洗礼の準備をした。蔡氏もカトリック教徒が外国の保護を得られると知り、やはり劉神父を尋ね教理書を研鑽した。1863年(同治2年)春、劉神父が東閭村を訪問し約50名の楊氏と蔡氏の村民に洗礼を授けた〔沙百里: 中国基督徒史,巴黎徳斯柯勒出版社,1992年〕。この後、村の住民の多くがカトリックを信仰するようになり。1874年(同治3年)には103名、1896年光緒21年)には698名ものカトリック信者が存在するようになった。
=== 義和団の乱 ===
1900年(光緒26年)6月、義和団の乱の影響で保定城内を含む周辺地区から約9,000人の信徒が村に避難した。当時東閭の小教区司祭であった張芳済は北京滞在中であり、事件の影響で村に戻る手段を失っていたため、避難していた蠡県高荘の王神父は村民を指揮して村の周囲に塹壕を掘り、その中に刺のある木の枝を投げ込み、更に塹壕の内側にも防御対策を施した。間もなく約4万の義和団は薑荘の包囲を解いた後に東閭に進撃し、軍営を設置して三面から東閭を包囲して「二毛子」(信徒)を殺害することを表明した。教徒は大砲1門および若干の銃で義和団の4回にわたる攻撃を撃退、さらに7月には清軍の44回にわたる攻撃を撃退している。8月15日に北京が八か国連合軍により占領されたという知らせを得た清軍は撤退した〔。義和団の乱の戦火を免れたことで、東閭聖堂は北境使徒座代理区における義和団の乱の被害を受けなかった僅か2つの聖堂の1つとなった(別の1つは北京西什庫天主堂)〔東閭教堂編印資料: 有関東閭〕。当時は聖母が東閭村の上空に出現しこれを守ったと伝えられたが、トレモンヌ神父(CM. Tlemonent, 中国名: 戴牧霊)は後にカトリックに帰依した義和団の人間から伝えられた話として、村の上空に出現した「白人太太」(西洋の婦人)を大いに恐れ、これを村に侵入するなんびともそこから生きては出られないという意味にとったと語っている〔『戴牧霊神父回憶録』1966年〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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