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松下 昇(まつした のぼる、1936年3月11日 - 1996年5月6日は、1960年代末から1970年代にかけての大学闘争の渦中、学生たち(全学共闘会議)の側に立ったいわゆる造反教官としてマスコミや文化的領域で盛んに取り上げられた。 1969年2月「情況への発言」〔「情況への発言」 〕を掲示し、旧大学秩序維持に役立つ授業・試験を放棄した。1970年10月神戸大学の懲戒免職処分の後、「強いられた生活様式~状態を基本として、この段階の共有と、そこからの解放の試み自体を生活手段として生きること、この試みを許容しない力や制度と持続的にたたかうこと、このたたかいに参加する人やテーマを拡大していくこと〔概念集 2 ~1989・9~ p22 〕」自体を生涯の課題として、表現し続けた。 == 来歴 == === 六甲まで === *1936年 長崎県に生まれたが、まもなく奈良県へ移転〔(『序曲』「試行出版部」1965年9月発行)に掲載のプロフィル〕 *1959年 東京大学在学中、共産主義者同盟へ加盟〔 *1960年 六・一五国会突入に参加〔「樺美智子、私の下痢を心配」と、『序曲』(「試行出版部」1965年9月発行)に掲載のプロフィルにある。〕 *1963年 大学院終了後、神戸大学へ勤務。翌年結婚〔 1965-1966年、吉本隆明が主催する雑誌『試行』に『六甲』1〜5章を連載。最終部に「不安をこの世界に深化拡大することによって告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう。」という呼びかけがあり、最終行は「私たちのであうたたかいが、〈六甲〉第六章=終章を表現することである。」となっている。散文詩あるいは断章集といった文学的形式を取りながらあえてアジテーションであるかのように、読者との直接的出会いを呼びかけている。この逆説を生きたのが彼の生涯だった、と言ってよい。作品「六甲」は、美しい六甲の風景のなかでまどろんでいたい自己に対する告発のインナースペース(内宇宙)〔「SFは外宇宙より内宇宙をめざすべきだ」ニュー・ウェーブ (SF)〕における展開だった。それはテーマとしてインナースペースに留まることはできず、〈関係としての原告団〉を現実空間に生み出そうとするものとなる。3年後自己の無意識の〈不安〉による告発表現であった全共闘運動と出会ったとき、当然にも〈関係としての原告団〉は現実化するに至る。 自己の無意識と情況との偶然の出会いによる盛り上がりといった性格が強く、華々しい盛り上がりが去った後は一部の政治青年を除き、運動を持続できなかったのが全共闘運動だった。松下の場合は、自己の展開が先にあり〈関係としての原告団〉が現実化したものなので、周囲の盛り上がり盛り下がりには無関係にテーマを追求、展開していけた(行かざるをえなかった)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松下昇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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