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松井 やより(まつい やより、1934年4月12日 - 2002年12月27日)は、日本のジャーナリスト、フェミニスト、元朝日新聞編集委員。本名は松井耶依。 東京府(現:東京都)出身〔。父の平山照次、母の秋子は牧師で、東京都渋谷区に東京山手教会を創立した。本名の「耶依」もキリスト教に由来する。弟の平山基生は日本共産党員の反米活動家〔平山基生(法学館憲法研究所サイト内)。平山基生『米軍違憲 「憲法上その存在を許すべからざるもの」』(本の泉社、2009年)135頁。長尾龍一(東京大学名誉教授。平山基生の高校時代の友人)サイト「OURANOS -ウーラノス」内、 April 12, 2015 。平山基生はロシア科学アカデミーの元客員研究員で、日本ユーラシア協会(旧日ソ協会)の下部組織であるユーラシア研究所(旧ソビエト研究所)事務局長・運営委員を務めたこともあり、渋谷区宇田川町の東京山手教会の隣にある山手マンション内に事務局を置く「沖縄・日本から米軍基地をなくす草の根運動」 を拠点に反米活動を展開している。日本ユーラシア協会は日ソ協会時代、60年安保時に鶴見俊輔らの「声なき声の会」のデモの指揮を行ったほか(「回想・日ソ協会のあゆみ」編纂委員会編『回想・日ソ協会のあゆみ』日ソ協会、1974年、96頁)、現在は「戦争法の廃止を求める統一署名」 運動を展開している。平山基生の妻知子は弁護士(あかしあ法律事務所 所属。公益財団法人いわさきちひろ記念事業団理事)で、夫の基生とともに反米活動に従事しているほか、衆議院議員総選挙に、中選挙区時代の東京都第1区から、1979年、1980年、1983年の3回にわたって、日本共産党の公認候補として立候補している。平山知子の父菊池(小林)邦作も小林多喜二ゆかりの共産党員(藤田廣登「小林多喜二周辺研究 試論 Ⅰ「伊勢崎事件資料集」補追 (産別会議記念・労働図書資料室サイト内))。〕。父親の平山照次も共産党系の反核団体原水爆禁止日本協議会(原水協)の常任理事を務めたことがある。 == 人物 == 1961年東京外国語大学英米科を卒業して朝日新聞社に入社。社会部記者として福祉、公害、消費者問題、女性問題などを取材し、立川支局長、編集委員から1981~85年シンガポール・アジア総局員。1994年朝日新聞社定年退職。 朝日新聞社在職中の1977年に「アジア女たちの会」を設立し、退職後の1995年にアジア女性資料センターを、1998年に「戦争と女性への暴力」日本ネットワークを設立して代表となる。朝日時代から上智大学・千葉大学・日本福祉大学・日本女子大学・琉球大学の非常勤講師、横浜国立大学大学院の客員教授を務めた。 朝日新聞在職中の社会部のトップ時代に「強制」従軍慰安婦を取り上げた。 2000年12月に「戦争と女性への暴力」日本ネットワークなどが自主開催した「模擬裁判」女性国際戦犯法廷で国際実行委員会共同代表の1人となり、日本側主催者の代表となった。 2002年8月、韓国ソウルで開催された「軍事主義に反対する東アジア・米国・プエルトリコのネットワーク」に日本代表として参加。米国が展開している「テロとの戦争」が「軍事主義を強化し、女性と子どもへの暴力を増幅させている」と批判する声明を発表した。 2002年10月、渡航先のアフガニスタンにて体の不調を感じ急遽帰国。重度の肝臓ガンと診断され、ガンであることを公表したが、2ヶ月半の闘病後、同月27日に死去。〔。葬儀は同年12月30日に東京山手教会で行われた。翌28日、朝日新聞は「私の視点」コーナーに、松井の寄稿文「託す「夢」 女性の平和資料館建設を」を掲載し、韓国の東亜日報が追悼記事を掲載して〔従軍慰安婦問題追求 松井やよりさんの美しい人生 DECEMBER 12, 2002 21:57 by 李英伊 〕、その死を悼んだ。 松井の遺志を継ぐ「女たちの戦争と平和資料館」には、松井の蔵書を収めたコーナーがある。 NPO法人「女たちの戦争と平和人権基金」が「愛と勇気に満ち溢れたジャーナリストであった松井やよりさんの遺志に連なる活動の一助となること」を目的として、2005年に「やより賞」を設立した〔〕。選考委員には中原道子や池田恵理子、竹信三恵子、辛淑玉らが名を連ねている〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松井やより」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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