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松井 光介(まつい こうすけ、1978年8月24日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属していた元プロ野球選手(投手)。現在は、東京ヤクルトスワローズの打撃投手兼スコアラー == 経歴 == === プロ入り前 === 中学2年時に父の転勤で東京都江戸川区に転居。江戸川南シニアを経て、に横浜高校に入学。 シニア時代は投手だったが、同期に丹波慎也がいたため投手としては同学年内では2番手という存在だった〔一学年上に横山道哉、二つ上に矢野英司がいたため丹波自身も2年夏まではエースではなかった。〕が2年次より外野手としてプレーしている。同年の第76回全国高等学校野球選手権大会に横浜高は5年振りの出場を果たすが、那覇商に初戦で敗れている。翌春夏も甲子園出場を目指したが、叶わなかった。 夏の神奈川予選敗退後、エースで4番の丹波を中心とする新チームを結成、翌年の甲子園を目指しての猛練習が始まった。ところがその直後の1995年8月17日の朝、その丹波が就寝中に先天性肥大型心筋症による心臓発作を起こし急逝してしまう。当時の横浜高校ナインを初め、渡辺元監督達も悲しみに暮れたが、この悲劇をきっかけに松井は急遽横浜高校のエースの座を引き継ぎ、チームを引っ張っていくことになる。その横浜高校は、1996年に念願の甲子園春夏連続出場を果たした。1996年春第68回選抜高等学校野球大会では1回戦で大阪学院大高にわずか1点差で敗れた。しかし同年夏の第78回全国高等学校野球選手権大会は初戦で山田秋親がいた北嵯峨に、8回表まで0-1とリードされていたが、8回裏に逆転で下して勝利を飾る。次の試合では福井商に8回裏までに4-2とリードしながらも、勝利寸前の9回表に自らの悪送球をきっかけに、逆転で敗れてしまった。奇しくも福井商に敗れたその日は前年亡くなった丹波慎也の命日であった。 横浜高校のチームメートには阿部真宏、幕田賢治らがいる。 高校卒業後は亜細亜大学に進学し、日米大学野球の代表選手にも選ばれる。後にチームメイトとなる吉川昌宏は大学時代の同期である。東都大学リーグ通算25試合登板、10勝6敗、防御率2.56、114奪三振。4年生春のリーグでは5勝2敗の活躍で優勝に貢献し、最高殊勲選手と最優秀投手に選ばれた。その後社会人のJR東日本へ入社。社会人ではJR東日本硬式野球部のエースとして都市対抗野球大会にも出場するが、プロからの指名は長らくなかった。 の大学生・社会人ドラフト3巡目で、ようやくプロからの指名を得て、27歳にしてプロ入りする。松井を指名したヤクルトスワローズは、丹波慎也の兄・丹波幹雄が所属した球団であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松井光介」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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