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松井 稼頭央(まつい かずお、本名:松井 和夫(読み同じ)、1975年10月23日 - )は、大阪府東大阪市出身のプロ野球選手。 2004年にMLBのニューヨーク・メッツに移籍した、日本人初の内野手メジャーリーガー〔「第1回メジャーリーガー 松井稼頭央さん|転機をチャンスに変えた瞬間 」クライス&カンパニー 2014年12月15日閲覧。〕。7年間MLBでプレーし、現在は東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する。シーズン長打日本プロ野球記録保持者〔「松井 稼頭央 」日本プロ野球名球会公式ホームページ 2014年12月9日閲覧。〕。 妻はオスカープロモーション所属の松井美緒〔「タレント詳細 」 OSCAR PROMOTION 2014年12月9日閲覧。〕。 == 経歴 == === プロ入り前 === 小学3年生時に近所の上級生に誘われて若江ジャイアンツに入団。当時のエースは後に西武ライオンズでチームメートとなる犬伏稔昌だった。犬伏が卒業すると投手として試合に出してもらえるようになったが、チームが所属していた地区は強豪揃いであり、小学生時代は全国大会には出場できず、中学生時代も決勝戦で敗れ、全国大会には出られなかった。小学生時代からずっと悔しい思いをしてきたため、高校に入ったら絶対に甲子園に行くと心に誓ったという。 PL学園時代は1年生の投手としては唯一春の大会でベンチ入り(背番号11)。1年の秋季大会では肘を痛めていたため松井自身は投げることができなかったが、チームは勝利し、春のセンバツに出場(背番号1)。準々決勝で先発に指名された。医者からは30球から50球が限度と言われていたが、痛み止めの注射を打ってマウンドに上がった。試合が始まると球が走らず、3回途中2失点でマウンドを降りた。その後チームは2年生時の夏、3年生時の春ともに甲子園出場を逃す。自身も背番号10でベンチ入りはしていたものの怪我のためほとんど投げられなかった。肩や肘がようやく治ったものの、3年生時の夏の大会直前の強化合宿でぎっくり腰になった。死ぬ思いで治療に専念し、大会に入っても腰に違和感はあったものの、試合当日何とか投げられる状態に回復した。松井は1回戦、2回戦とも9回まで投げ抜き、16奪三振を記録した試合もあった。決勝戦では近大付高の金城龍彦との投げ合いとなった。PLは3点を先取し、松井も4回まで1安打ピッチングだったが、5回に連打で2点を取られ、7回にも金城の二塁打がらみで逆転を許す(3-5)。8回にもスクイズで1点を追加され、3-6で敗れた。試合後にはベンチ横で涙を流す一幕もあった 。 ドラフト前に読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、福岡ダイエーホークスから話があったが、巨人とダイエーからは投手ではなく野手として指名するという話だった。1993年のドラフト会議で西武ライオンズが3位指名で交渉権を獲得し、契約金5000万円、年俸450万円(金額は推定)で入団した〔朝日新聞、1993年12月2日付朝刊 (22面)〕。西武からは野手として指名された。背番号は「32」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松井稼頭央」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kazuo Matsui 」があります。 スポンサード リンク
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