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松井宗恒[まつい むねつね] 松井 宗恒(まつい むねつね、生没年不詳)は、戦国時代の武将。通称は八郎・山城守など。松井宗信の子。二俣城城主。 == 生涯 == 今川氏の家臣・松井宗信の子として誕生。 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いにて今川義元と共に父・宗信も戦死。それに伴い同年12月、その家督及び跡式を継ぐことを認める文書(判物)数通を今川氏真より受給、父の遺領相続〔「…右、代々判形・天沢寺殿判形の旨に任せ、宗恒に領掌す、永く相違有る可からず…」(下記、関連古文書 2)〕と松井衆の寄子の承継を認められている〔「…右、天沢寺殿判形之旨に任せ、自今以後、謂われ無く離る可からず…」(下記、関連古文書 3)。〕。また、これらによれば父・宗信は戦死時に左衛門佐と称し、宗恒は八郎と称した〔「父左衛門佐宗信、度々軍忠抽んずるの事 …(中略)… 永禄三庚申年十二月二日、氏真(花押)、松井八郎殿」(下記、関連古文書 1)〕。さらに、父より引き継いだ寄子の武士は57名であったという〔蔭山尾張守以下の武士51名と公文6名である。(下記、関連古文書 3)。〕。ただし、宗信戦死後は同族の松井宗親(信薫の子とされ曳馬城主飯尾氏と縁戚という)や松井助近(宗恒の叔父にあたり家康に属したされる)が宗恒より以前に二俣城主に就任したとの諸説が存在する。 その後、居城の二俣城は永禄11年(1568年)12月、徳川家康の進攻を受け、松井衆は松井和泉守某・松井八郎三郎某などが今川氏真の信頼篤い城将・鵜殿三郎〔鵜殿三郎は鵜殿長照の子・氏廣(氏長とも)で三河国上ノ郷城城主。氏廣は永禄5年上郷城が家康に攻められて落城の際、徳川方に弟・氏次と共に捕らえられたが、駿府で人質だった家康の正室・築山殿及び嫡子・信康と人質交換されて氏廣・氏次は今川方に復帰した(『三河物語』・『家康の族葉』 239頁、下記の参考文献 4・5)。〕 〔氏廣は永禄11年当時まで二俣城に今川方の城将として番詰めをしていたと考えられる。元亀3年(1572年)の開城後、氏廣は家康に仕えて天正19年(1591年)には知行1700石を賜り徳川氏旗本に返り咲いている(「断家譜・巻15」、下記の関連古文書5)。〕と共に降参し徳川氏に服属〔「… 一、二俣之城、鵜殿并びに二俣先方廿三人、居城に出し置く事、…(中略)… 一、二俣籠もるの人数、駿府の時の如く相違有る間敷き事、…」(下記、関連古文書 4)〕。しかし宗恒はこの時の動向は不明ながら、後には武田方に投じたとされ、元亀3年(1572年)には、武田氏より2千貫文の知行を宛われた。同年12月には甲斐国の武田信玄にの攻撃に二俣城が再度落城している。宗恒一統はその後の武田氏滅亡に運命をともにしたという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松井宗恒」の詳細全文を読む
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