|
松井 聰(まつい さとし、1915年3月12日〔『日外アソシエーツwhoplus』「松井 聡(日本バスケットボール協会副会長)」の項〕 - 1995年8月1日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。 1936年のベルリンオリンピック日本代表。福井県福井市出身〔。176cm〔。 == 経歴 == 1915年、福井県福井市に生まれる。府立五中、成城高校を経て、京都帝国大学経済学部に進学する。高校の途中まではサッカーの選手だったが、16歳でバスケを始め、3年の秋には日本代表に選出された〔。 京大在学中は籠球部に所属し、大学3年時の1936年にはベルリンオリンピックに出場した〔〔『東京朝日新聞』1936年4月14日東京朝刊4頁「オリムピックへ篭球代表決る 正選手12」〕。 大学卒業後は神戸学士クラブに所属し、高校、大学、社会人のすべてで全国制覇を経験した〔。 現役引退後は日本バスケットボール協会の理事や副会長を務めたほか、1979年夏季ユニバーシアードの団長や日本オリンピック委員会の委員等を歴任した〔〔『朝日新聞』1979年4月26日東京朝刊18頁「ユニバーシアード選手団長に松井氏」〕。 1995年死去、享年80歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松井聰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|