|
松村 邦洋(まつむら くにひろ、1967年8月11日〔 - )は、日本のお笑いタレント、ものまねタレント。日本史上の人物・タレント・プロ野球選手・政治家など幅広くものまねをしている〔。愛称はまっちゃん、バウバウ。 山口県熊毛郡田布施町出身〔。太田プロダクション所属〔。 == 略歴 == 中学時代は河本育之(元読売ジャイアンツ二軍投手コーチ)と同級生であった。「河本と野球部でバッテリーを組んでいた」とよく言われるが、松村は中学校では野球部ではなかったので真実ではない。 山口県立田布施農業高等学校卒業〔。高校時代から、地元・山口や広島のテレビ・ラジオ番組に出演。柏村武昭がディスクジョッキーをしていたRCCラジオ『サテライトNo.1』でアルバイトのADをしていたことがあり、得意のものまねを披露し人気者となり、番組レギュラーにもなった。卒業後の進路として本気でお笑い芸人の道を目指していたと言い、学校の視聴覚室で教師にビデオを回してもらい、得意のものまねを収録したテープを吉本興業に送付したことがあるという。また、高校2年時に8科目が赤点となり、1年留年。修学旅行に二回行ったという。高校を4年かけて卒業後、九州産業大学に進学。 大学在学中にフジテレビ『ものまね王座決定戦』の姉妹番組『発表!日本ものまね大賞』に出演、ビートたけしをはじめ石橋貴明(とんねるず)、古舘伊知郎らのものまねを披露し、チャンピオンとなるも、この時点で芸能界デビューはならなかった。その後、テレビ西日本でケーブル捌きのアルバイトをしていた時、番組を見ていた片岡鶴太郎に見出され、1988年に大学を中退し上京。当時鶴太郎は『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』の中継で同局を訪れていた。 鶴太郎の在籍する太田プロから芸能界デビュー。当時所属していた爆笑問題や松永光代(現・太田光代)らと下積みを重ねながら、『ものまね王座決定戦』の常連として、ビートたけしや掛布雅之のものまねで茶の間を沸かせるようになる。 日本テレビ『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(第8回)の「冷凍室ダジャレ→ものまね合戦」にて披露した、放送作家・高田文夫のものまね「バウバウ」でブレイクする。この回での活躍により番組の常連となり、ダチョウ倶楽部、出川哲朗らとともに「リアクション芸人」の代表挌となる。 1992年からは、松本明子とともに日本テレビ『進め!電波少年』で司会を務め「アポ無し取材」で人気を博す。 1992年には、第30回ゴールデン・アロー賞芸能新人賞を、1994年にも第32回の同賞で芸能賞を受賞した。 1993年から1999年にかけて、ニッポン放送『オールナイトニッポン』でパーソナリティを務めた。一旦はパーソナリティを降板したものの、3ヶ月後に復帰。トータルで約6年に渡る長寿番組であった。また、同局の『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』には1993年から金曜日のパーソナリティとしてレギュラー出演している。 1990年代には俳優としても活躍した。日本テレビドラマ『STATION』では吉田栄作に次ぐ準主役で出演、テレビ朝日『ハンサムマン』ではV6の長野博とW主演した。1995年公開の映画『君を忘れない』でも当時若手俳優として伸び盛りだった木村拓哉(SMAP)・反町隆史らとともに名を連ねた。 時を同じくしてファッション雑誌『an・an』の「抱かれたくない男性タレント」の上位に親友・出川哲朗とともにランキングしていたこともある。 1997年に『電波少年』を降板させられた(進め!電波少年#松村降板騒動)ことにより一時低迷したが2000年から2013年9月まで『探偵!ナイトスクープ』のレギュラーを務めた。 2013年7月に『アメトーーク!』で「本当はスゴイ!!松村邦洋」が放送される。また同年下半期は堺雅人がブレイクしたので堺のものまねをしていた松村の仕事も増加した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松村邦洋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|