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松江共和物産株式会社(まつえきょうわぶっさん)は、化粧品・日用品を卸していた企業である。現株式会社PALTAC中四国支社松江支店。 == 変遷 == 1921年(大正10年)。米田洋三郎が、松江市東本町で小さな荒物店を営み、ホウキ、はし、竹ざるなどを売ったことに始まる。 1947年(昭和22年)には資本金80万円で有限会社を設立、荒物問屋としてスタートする。 1963年(昭和38年)には資本金330万円に増資。この年に米田英一が社長に就任する。その時はまだ従業員は10人程度であった。昭和30年代は、「ホープスター」という三輪車が一台、大八車とリアカーが数台あるだけだった。市内にあった倉庫から、荷物をリアカーで集め回ったものでした。得意先には、市内なら自転車の後にリヤカーを付け、遠方なら鉄道便を利用して出荷した。高度経済成長期の波に乗り、山陰一円に販売網を広げた。量販店やチェーンストアーは問屋を通さず直接取引システムに変わりつつあった。 1970年(昭和45年)3月、日用品雑貨卸売りのボランタリチェーンの西日本共和物産に加盟した。同組織は広島に本部があり、中・四国・近畿に8社、九支店を持つグループ会社であった。共同仕入れにより、良い品が早く、安くしかも安定供給できるようなトータルコストダウンできるようになった。同社の倉庫は市内の津田、田町、米子町、東本町など十数か所に点在していたのを、1971年(昭和46年)松江市の商業団地(嫁島町)に移転させ、倉庫機能の充実、物流センターを確立させる。この事で陰陽を結ぶ製造ー配送ー販売ー流通パイプは太く堅固になった。経済安定期に米子・鳥取に営業所を開設する。 1977年(昭和52年)にコンピュータを導入、体制の合理化と販売事務管理強化を行う。しかし、山陰を取り巻く経済環境が厳しさを増し、パルタック(パルタックKS→Paltac→現・PALTAC)の傘下となり、合併への道のりを歩む。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松江共和物産」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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