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松井 千枝子(まつい ちえこ、1899年12月4日 - 1929年4月2日)は、日本の女優。本名:蔵数 富子〔。旧芸名は松波 美子〔。大正から昭和初期にかけてサイレント映画で活躍した。 女優の松井潤子は妹、俳優の松井満は弟にあたる〔。 == 来歴・人物 == 1899年(明治32年)東京市浅草区諏訪町に、南葛飾郡で病院を経営する医師の元に長女として生まれる〔キネマ旬報社、1995年、554 - 557頁。〕。1917年(大正6年)に東京府立第一高等女学校を卒業〔。1922年(大正11年)に母親が死亡し、この後父親が再婚したため家を出、牛込区で妹の潤子と一緒に暮らす〔。1924年(大正13年)舞台協会に「松井千枝」として参加するが、病気のため一度も舞台に出演することができなかった〔。この後小笠原プロダクションの『金色夜叉』で初めて映画に出演〔松井千枝子 、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2013年3月5日閲覧。〕後、国際活映に「松波美子」の芸名で入社するも1925年(大正14年)に国活が解散。師事していた松山省三や久米正雄に勧められて同年2月に松竹蒲田撮影所へ潤子と共に移り、芸名を「松井千枝子」とする〔。五所平之助第一回監督作品である『南島の春』のヒロインとして松竹映画に初出演する〔〔(製作されたのは牛原虚彦・島津保次郎両監督の『大地は微笑む』が最初〔)。モダンガール役が多かった潤子と比べ、日本的な憂いを帯びた美人の役が定評を得る。 1927年(昭和2年)、同名の小唄をモチーフとした『春の雨』の原作・脚色を担当し自ら主演〔、同じ年千代子が書いた「寂光」を改題した『哀愁の湖』でも脚色・主演を担当した〔。 1928年(昭和3年)に腎臓病のため手術を行ったが、療養中の1929年(昭和4年)4月2日に蒲田町の自宅で早世〔。。同年7月に遺稿集『死の舞台』が刊行〔、8月に遺作『3善人』が公開された〔松井千枝子 - 日本映画データベース、2013年3月5日閲覧。〕。 == おもなフィルモグラフィ == ; 小笠原プロダクション *『金色夜叉』 1924年 監督:三善英芳 ; 国際活映 *『ストトン』 1924年 *『関の五本松』 1924年 *『延命院のせむし男』 1924年 監督:池田義信 *『義血』 1924年 ; 松竹蒲田撮影所 *『南島の春』 1925年 監督:五所平之助 *『大地は微笑む』 1925年 監督:牛原虚彦・島津保次郎 *『女難』 1925年 監督:蔦見丈夫 *『愛の乱舞』 1925年 監督:吉野二郎 *『坂崎出羽守』 1925年 監督:勝見庸太郎 *『郊外の家』 1925年 監督:重宗務 *『踊り子の指輪』 1925年 監督:島津保次郎 *『屋上の恋人』 1925年 監督:吉野二郎 *『正直金さん』 1926年 監督:勝見庸太郎 *『悩ましき頃』 1926年 監督:清水宏 *『秋の歌』 1926年 監督:池田義信 *『海人』 1926年 監督:鈴木傳明 *『コスモス咲く頃』 1926年 監督:野村芳亭 *『受難華』 1926年 監督:牛原虚彦 *『孔雀の光』 1926年 監督:吉野二郎 *『妖婦五人女 第四篇 奥様お千枝』 1926年 監督:野村芳亭 *『父帰る』 1927年 監督:野村芳亭 *『春の雨』 1927年 監督:清水宏 *『白虎隊』 1927年 監督:野村芳亭 *『海の勇者』 1927年 監督:島津保次郎 *『毒唇』 1927年 監督:野村芳亭 *『哀愁の湖』 1927年 監督:佐々木恒次郎 *『浅草行進曲』 1927年 監督:野村芳亭 *『感激時代』 1928年 監督:牛原虚彦 *『鉄の処女』 1928年 監督:大久保忠素 *『昭和の女』 1928年 監督:清水宏 *『道頓堀行進曲』 1928年 監督:野村芳亭 *『3善人』 1929年 監督:野村芳亭 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松井千枝子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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