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板倉氏(いたくらし)は、日本の氏族の一つ。通し字は「勝」、「重」 渋川義顕(足利泰氏の次男)を源に辿る。義顕は当初は足利庄の板倉の地を領して本貫とし、板倉二郎と称した。義顕はのち上野国渋川荘を有して渋川氏の祖となっているが、その後裔と称するのが江戸時代の板倉氏である。 九州探題を世襲した備後渋川氏の重臣に板倉氏があり、渋川義鏡の代官に板倉頼資の名がみえる。 ==概要== 三河の板倉氏は、義鏡の子孫で三河に流れた板倉頼重が祖とされ、頼重・好重父子は深溝松平氏に仕える。頼重の孫が、のちに京都所司代になり、大名に取り立てられた板倉勝重である。勝重の父板倉好重が1561年の善明提の戦いで戦死、さらに1581年には高天神城の戦いで板倉家の家督を継いでいた弟の定重が戦死。このため勝重が還俗し、家康に仕えると吏僚として活躍した。 江戸時代には、勝重に始まる備中松山藩の他、上野安中藩、陸奥福島藩、備中庭瀬藩などいくつかの分家を出し、幕末に至る。 また、板倉勝重妻〔粟生永勝女。〕は先夫中島重次の子を連れて再婚し、その子・重好を勝重の養子とした。後に実父の家系を再興し、交代寄合旗本中島與五郎家〔三河国渥美郡大崎607石〕の祖となった。 なお板倉氏は室町期半ばの系譜に不自然なところもあると指摘されていて本当に渋川氏の流れかどうかあやふやな点もある。 また義鏡の子孫は別に残っており、記録などから実際には鎌倉時代末期に分かれた庶流と見られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「板倉氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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