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板倉 賢司(いたくら けんじ、1965年8月25日 - )は、東京都調布市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、48ページ〕出身の元プロ野球選手(内野手)。右投げ右打ち。 == 来歴・人物 == 調布市立神代中学校から1981年に早稲田実業学校高等部に入学。 調布リトル・シニア所属時の1学年上には中学校、高校を通じての先輩でもある荒木大輔や宮下昌己、同級には武田一浩や上福元勤、丹波健二らがいた。 1981年秋の新チームから1年生ながら名門早実の4番に座り、翌年の選抜高等学校野球大会出場権をかけた秋季東京都高校野球大会での優勝や秋の明治神宮野球大会ベスト4進出に大きく貢献、翌1982年春の第54回選抜高等学校野球大会に秋季東京都大会準優勝の二松学舎大付とともに東京代表として選ばれ、板倉自身初となる甲子園大会への出場を果たした。 大会では初戦の西京商(近畿・京都)を3-1、2回戦では好投手の川相昌弘を擁する岡山南(中国・岡山)を3-0の完封で下し優勝への期待が高まるも、準々決勝で2年生エース三浦将明とスラッガー荒井幸雄、高井直継を擁する横浜商(関東・神奈川)に1-3で敗れ前年夏の甲子園に続いてのベスト8敗退となった。 夏の甲子園では3本塁打を記録。 1983年秋のドラフト3位で横浜大洋ホエールズに指名され入団。長打不足の当時の大洋で大いに期待された。イースタンリーグではベストナインに選ばれジュニアオールスターにも出場したが、一軍では5試合の出場に終わり、1989年に引退〔。引退後は横浜球団スコアラーに転じ〔、長らく務めていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「板倉賢司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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