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板橋宿 : ウィキペディア日本語版
板橋宿[いたばし-しゅく]

板橋宿(いたばし-しゅく)は、日本近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町
中山道六十九次のうち江戸日本橋から数えて1番目の宿場〔名所絵では起点と終点も数に入れるため、表記上の数がずれる。したがって、浦和宿は「第二」の図。〕(武蔵国のうち、第1の宿〔現在では、東京都に属する唯一の宿。〕)。
同時に、川越街道川越・児玉往還)の起点でもある。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国豊島郡板橋郷下板橋村宝亀2年(西暦771年10月27日以前は東山道武蔵国豊島郡広岡郷の一部。以後、東海道に属す。平安時代末期以降は板橋郷の一部。〕。
現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。
== 板橋宿の特徴 ==

=== 江戸四宿の一つ ===
江戸時代には武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、江戸四宿の一つとして栄えた。
江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち、「江戸」として扱われていた。 〔亀井千歩子ほか 『中山道を歩く』改訂版 山と溪谷社〈歩く道シリーズ 街道・古道〉、2006年、12- 13頁、ISBN 4-635-60037-8 :一部を除く。〕
板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも称。現在の板橋)があった。
上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。 〔
道中奉行による天保12- 15年(1841- 1844年)の調べ(『中山道宿村大概帳』)〔『中山道宿村大概帳(なかせんどう しゅくそん-だいがいちょう)』に基づく。『宿村大概帳』とは、幕府の道中奉行所が調査した五街道とその脇街道の宿場の記録で、53冊が収蔵されている。各宿場の人口、家数、本陣、旅籠の数、高札の内容、道路の広さ、橋、寺社、地域の産業、特産品など、宿場と街道筋の村落の状況が詳しく記載されており、五街道分間延絵図とともに道中奉行所が用いたものらしい。成立年代不明ながら、天保から安政1840- 1850年代)にかけての調査と考えられている。〕によると、宿往還の長さは20町9間(約2.2km)、うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)であり、南北に広がる。宿内人口〔当時の表現では、宿内人別。〕は2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)、宿内家数〔当時の表現では、宿内惣家数。宿場内の総戸数。〕は573軒であった。
うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠(はたご)は総計54軒であった。
板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所〔公用な荷物を伝馬で運ぶため、重量を測り運賃を決める役所。当時は貫目御改所(かんめ-お-あらため-しょ)と呼ばれた。中山道上の貫目改所は、板橋宿のほか、信州の洗馬宿追分宿にも設けられていた。〕、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。
また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿〔ばくろう-やど。馬に荷駄を背負わせ、それらを売りさばく商売をしていた人々が馬喰であり、彼らの宿泊のための施設を馬喰宿と言う。〕が建ち並んでいた。 〔
江戸時代には日本橋が各主要街道の形式上の起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸四宿と呼ばれる品川宿千住宿内藤新宿、そして、板橋宿が機能していた。
これらの宿場には茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠(いいもり-はたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人〔当時は旅立つ者を身内や知人が宿場まで見送りに出る習慣があった。〕や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んでたいそうな賑わいを見せた。
規模は同じ天保15年頃の宿内人口と家数を比較して大きいほうから、千住宿(9,556人、2,370軒)、品川宿(7,000人、1,600軒)、内藤新宿(2,377人、698軒余)、板橋宿(2,448人、573軒)と、板橋宿は四宿の中では最下位ながら、その繁栄ぶりは中山道中有数〔であった。
なお、板橋宿は150人もの飯盛女を置くことが認められており、日本橋寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ねていた。
幕末の戊辰戦争の際、中山道から江戸攻撃に進軍中であった官軍は、天璋院からの書状によりここで停止した。
宿場町として終焉を迎えたのは明治時代
その頃になると中山道の重要性の低減に連れて徐々に寂れてゆき、板橋遊廓へと変貌していった。遊廓としての賑わいは昭和中期の太平洋戦争中まで続いた。遊廓として使われていた『新藤楼』の玄関部分は現在、保存されている。〔『東京の花街、色街、艶な町』より出典〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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