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林 伯渠(りん はくきょ、1886年3月20日 - 1960年5月29日)は、中華民国・中華人民共和国の革命家・政治家・教育者。名は祖涵、字は邃園だが、より著名と思われる号の伯渠を本記事では使用する。 == 事跡 == === 共産党への加入 === 1902年(光緒28年)、湖南西路師範学校に入学し、1904年に日本へ留学した。日本では弘文学院で学び、翌1905年秋に中国同盟会へ加入している。同年冬に帰国し、1906年(光緒32年)春、長沙振楚学堂と西路公学で教員となった。1907年(光緒33年)、吉林省勧学総所宣伝所会弁に任ぜられている。 1911年(宣統3年)4月、広州黄花崗の革命派の蜂起に参加し、その後、湖南に戻って革命の秘密工作に従事している。1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)では、岳州要塞司令部参謀を務めたが、敗北して日本に亡命した。日本では中華革命党に参加し、1915年に帰国している。 同年12月に護国戦争が勃発すると、林伯渠は湖南省の護国軍総司令部で参議を務めた。護国戦争勝利後の翌年7月、湖南省督軍公署秘書兼総務科長に任ぜられ、後に政務庁庁長に昇進している。護法運動が始まると、林も孫文(孫中山)に与し、湖南護法軍司令参議となった。12月には湖南省(護法軍政府側)財政庁庁長を兼ねている。1920年(民国9年)春、広州の大元帥府で参議となり、冬には上海に移って雑誌『革新評論』を創刊した。 1921年(民国10年)、林伯渠は中国共産党に加入し、翌年冬には中国国民党でも総務部部長に就任した。その後、広州に赴いて中国国民党の改組と三大政策の立案、第一次国共合作の確立に関与している。1924年(民国13年)1月の第1回全国代表大会で国民党中央執行委員候補に選出されている。翌1925年(民国14年)8月、国民党中央党部中央執行委員会常務委員兼農民部部長に昇進した。1926年(民国15年)1月、国民党第2回全国代表大会で中央執行委員に当選し、2期1中全会では中央常務委員に選ばれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林伯渠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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