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林 土太郎(はやし つちたろう、1922年3月24日 - 2015年7月9日)は、日本の録音技師である〔林土太郎氏死去 映画録音技師 、京都新聞、2015年7月10日付、2015年7月10日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == 1922年(大正11年)3月24日、京都府京都市に生まれる〔『映画録音技師ひとすじに生きて - 大映京都六十年』、林土太郎、草思社、2007年、奥付プロフィール欄。〕。 幼少のころはサイレント映画の時代で、映画好きになり、やがて片岡千恵蔵が主宰した片岡千恵蔵プロダクション(千恵プロ)が嵯峨野にもっていた「千恵蔵プロダクション撮影所」等に出入りするようになる〔。 15歳となった1937年(昭和12年)4月、千恵蔵プロが解散し、プロダクションごと日活京都撮影所に招かれる〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1980年、「片岡千恵蔵」の項、執筆滝沢一、p.144-148。〕にあたり、同撮影所の録音部に入社、録音助手となる〔。 1942年(昭和17年)2月、第二次世界大戦開始による戦時統制で、日活の撮影所等の製作部門、大都映画、新興キネマが合併して大日本映画製作(のちの大映)が設立され、それにともなって大映京都撮影所録音部に継続入社した〔。その後、徴兵の召集を受け職場を離れたが、1945年(昭和20年)の終戦にともない、復社した〔。 1950年(昭和25年)、黒澤明が監督した『羅生門』に録音技師大谷巌のチーフ助手としてクレジットされる〔#外部リンク、「林土太郎」、日本映画データベース、2009年11月3日閲覧。〕。1953年(昭和28年)、ヴェテラン・荒井良平監督の『水戸黄門地獄太鼓』で技師に昇進した〔。 1970年(昭和45年)、大映を退社、独立して「京都シネ・スタジオ」を設立した〔。独立第1作は、同年の岡本喜八監督の勝プロダクション作品『座頭市と用心棒』であった〔。大映は翌1971年(昭和46年)12月に倒産した。同じ大映京都撮影所出身の勝新太郎が主宰する勝プロダクションや西岡善信が主宰する映像京都、東映京都撮影所のテレビ映画を手がけた〔。 1994年(平成6年)、黛りんたろう監督の『RAMPO』の録音技師を務めた〔〔が、同作の奥山和由監督ヴァージョンはかつて助手時代に撮影所録音部の後輩であった紅谷愃一が務めた。2007年(平成19年)、草思社から著書『映画録音技師ひとすじに生きて - 大映京都六十年』を上梓する。 2015年(平成27年)7月9日、老衰のため京都市下京区の病院で死去した〔。満93歳没。葬儀・告別式は同11日に同市右京区で行われ、長男で録音技師・立命館大学映像学部映像学科教授の林基継〔、2015年7月10日閲覧。〕が喪主を務めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林土太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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