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柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1956年10月20日頃)は、日本の陸軍軍人、軍医。 == 経歴 == 長野県小県郡で小学校教員の次男として生まれた。貧しい柄沢家を背負って立つ跡継ぎとして期待され育てられた。1929年東京医学専門学校(現東京医科大学)に入学。1933年卒業、陸軍少尉。1936年4月、陸軍軍医学校に入学。軍医中将梶塚隆二が主幹を務める軍陣防疫学教室に所属、細菌学を学んだ。1937年7月、日華事変により学生のまま防疫部の一員として天津に渡り、防疫活動に従事した。この半年前に結婚し、天津にいる間に一女をもうけている〔近藤2011、p6,8〕。 1939年9月、陸軍軍医学校を卒業。同年12月、軍医大尉として妻子を伴い満州国平房の関東軍防疫給水部(731部隊)に赴任した〔。軍医少将川島清のもとで、第四部第一課(細菌培養課、柄沢班)責任者を務め、細菌兵器開発にあたった。 1945年9月1日、奉天市(現瀋陽市)でソビエト連邦軍の捕虜となり、ハバロフスクに送られて取り調べを受けた〔近藤2011、p.5〕。1949年12月に始まったハバロフスク裁判で矯正労働収容所禁固20年の判決を受け、イヴァノヴォ州チェレンツィ村のラーゲリ第48将官収容所に収容された〔。 1952年6月、初めて通信の許可が下り、毎月1回柄沢から郷里の妻にあてたはがきが届くようになった。1956年10月19日の日ソ共同宣言に伴う恩赦が出て、日本への帰国が決まった矢先の10月20日、洗濯場の梁にひもをかけて縊死しているのが発見された〔。 遺体はチェレンツィ村の俘虜収容所墓地に埋葬され、のち妻が引き取って郷里に葬られた。自殺の原因について、妻は「自分のしたことを日本人は許してくれないと考えたからではないか」と語っている〔。 柄沢班の部下であった篠塚良雄は、1984年頃から自らのかかわった人体実験について語り戦争犯罪を謝罪するようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柄沢十三夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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