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柏原 長宅(かしわばら ながいえ、生年不詳 - 1621年(元和7年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐藩上士。播州赤松流柏原氏。通称は半右衛門。家紋は「左三つ巴」。 == 生涯 == 播州赤松氏の旧臣・柏原久宅(新之丞)の二男として播磨国に生まれる。母は中村対馬の娘。 1582年(天正10年)、播磨国で父・久宅と共に山内一豊に召抱えられ、はじめ長宅は格別御児扈従として仕えた。1588年(天正16年)、豊臣秀吉の聚楽第へ行幸の節、山内一豊が御束帯を着て供奉する際に、その御太刀持ちとしての御供を仰せ付かる。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの功績により主君・山内一豊が土佐国へ封入されると、御入国御先達の御人数を差下されるに付き、11月18日「御掟御書附」を渡され、先達って土佐国へ入国し、諸事を下知することを仰せ付けられた。その後、知行500石を格別に下し置かれ、御扈従組頭を仰せ付けられた。また、高知城築城の時に一豊が巡視を行った際、一豊と同装束六人衆(野中玄蕃・市川大炊・柏原長宅(半右衛門)・乾宣光(七郎左衛門)・乾和三(猪助))の一人に抜擢され、藩主の側近として仕えている。 土佐藩主・山内忠義の代になると、父・久宅の家督・役儀ともに無相違仰せ付けられ、かつ長宅の元々食んでいた500石と併せて都合1000石を下し置かれた〔『御侍中先祖書系圖牒』の本文に久宅の家督を長宅が相続した文章を載せるが、久宅の隠居の記録が無く、久宅の歿年が1612年(慶長17年)で、長宅の養子の元宅の家督相続が1611年(慶長16年)であるため、実際には「久宅-長宅-元宅」の順に相続されたのでは無く「久宅-元宅」と相続された可能性がある。この点は江戸時代に既に指摘されており、『御侍中先祖書系圖牒』の傍注に、この件に関する考察が記載されている。〕。また、尾州名護屋御城を御普請の節、普請奉行を仰せ付けられ、名護屋へ罷り越して築城に従事した。 1621年(元和7年)、病死〔墓碑による。〕。墓は土佐国高岡郡須崎(現 高知県須崎市下分乙長竹)にあり、位牌は「元亨院」(所在地 高知県須崎市下分乙328)に祀られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柏原長宅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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