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柳家三亀松 : ウィキペディア日本語版
柳家三亀松[やなぎや みきまつ]

初代柳家 三亀松(やなぎや みきまつ、1901年9月1日 - 1968年1月20日)は都々逸三味線漫談家、粋談本名・伊藤亀太郎(いとう かめたろう)。出囃子は『佃』。1962年設立の東京演芸協会会長。当時住んでいた住所から「池之端の師匠」と呼ばれた。戦前は主に吉本興業東京吉本)所属。弟の隆啓は映画俳優をしていたが若くして戦争で亡くなっている。
== 経歴 ==
東京木場材木職人の家に生まれ、小学校卒業後家業を手伝ったり、材木問屋に奉公に出たりしたが生家は芸事好きで幼少の頃から都々逸長唄小唄新内節清元節等の修行をし十代の後半に流しに出るようになり、一方1918年幇間桜川梅平に入門し出身地の木場から桜川木場平寿五六揚羽家二三平などを名乗り深川、赤坂、芝浦などを転々も長続きせず本格的に流しになる。関東大震災で仕事が減り天狗連の芸人となり憧れであった太神楽芸人の湊家小亀に因んで湊家亀松で寄席に出演するようになる。
1925年初代柳家三語楼の門下となり、晴れて柳家三亀松と名乗る。
1932年9月に宝塚歌劇団12期生高浪喜代子と結婚し新居を日本橋浜町に転居。2年後根津宮永町に3年ほど住んだ。
吉本興業の専属となってからは阪東妻三郎大河内傳次郎の形態模写を取り入れた映画漫談やお色気の音曲漫談等を始める。特にお色気の音曲漫談では『アハァーん』や『イヤァーん』等の女性の鼻の掛かった名文句で売り出す。余りに過激すぎて寄席で禁止令が出る程だった。その後1934年8月より、日本のSPレコードの検閲が始まり三亀松のレコードも多くが発禁処分となった(実に31枚のレコードが発禁になっている)。発禁を逃れるために芸名を変えてレコードを販売するなどした時期もあった。
柳家金語楼と並ぶ、東京吉本の大看板でもあり、戦前の吉本では、金語楼と共にトップクラスの高給取りであった。1935年頃、サラリーマンの初任給が帝大卒で6,70円という時代に、500円から700円の月給をもらっていたという(もっと多かったという説もある)〔小島貞二 『漫才世相史』 毎日新聞社、1978年、128頁。〕。戦時中は吉本興業の慰問団わらわし隊にも参加している。その後池之端に住んでいたが戦時中は埼玉県長瀞に疎開。
戦後は解禁され、テレビや寄席で活躍をする。また住まいも池之端にあった。
1963年東京大阪で芸能生活40年興行が行われた(東京は5月12日大手町サンケイホール)際、東京では美空ひばり江利チエミ、兄弟子の柳家金語楼が、大阪でも大看板の噺家がゲストとして呼ばれた。なお、大阪での司会は3代目桂米朝が勤めた。1965年には活躍が認められ芸術祭奨励賞を受賞。
高座では江利チエミの父が、三亀松の三味線に合わせてピアノの演奏を務めていた。
1968年1月20日胃癌のため死去。享年66。前年11月に発覚した際にはすでに数箇所に転移しており手遅れであった。一部書籍で河豚の毒にあたって亡くなったと記されているものがあるが、誤りである。通夜はこれぞ芸人という賑やかなもので花札の博打も行われたのだと、立川談志。
2代目三亀松は初代の弟子で、3代目柳家亀松から2代目を継いだ(1998年没の享年76、実子は落語協会所属の柳家亀太郎)。他にも弟子に三亀坊小三亀松、三亀次、三亀平、亀次(のちのコロムビア・ライト、「コロムビア・トップ・ライト」)、志賀晶、白山雅一等がいた。
私生活では非常に艶福家で上記の高浪喜代子以外にも3、4回結婚をした。またヒロポンの常習者で中毒から抜けるのに10年以上かかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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