|
柳本 晶一(やなぎもと しょういち、1951年6月5日 - )は、日本のバレーボール元選手(元全日本代表)・指導者。前バレーボール全日本女子チーム監督。現役時代のポジションはセッターで、テレビ中継のニックネームは全日本女子バレー 復活請負人。身長182cm。 == 経歴 == 大阪府大阪市出身〔柳本晶一プロフィール 首相官邸ホームページ 〕。大阪商業大学付属高校卒業後、1970年帝人三原に入団。翌1971年新日本製鐵(現・堺ブレイザーズ)に移籍。以降、主力選手として活躍。1973年、全日本代表に初招集されるが、猫田勝敏の控えに甘んじることとなる。1974年アジア大会で優勝、同年世界選手権で銅メダル獲得、1976年モントリオールオリンピックに出場し、4位入賞するなど活躍を見せた。 1980年から監督兼任となり、1982年日本リーグ(現プレミアリーグ)優勝。1985年からタイ男子代表監督を1年間務める。1986年地域リーグ・日新製鋼の選手兼任監督となり創部5年でチームを日本リーグに昇格させた。1991年現役引退し監督専任となった〔http://www.jva.or.jp/information/yanagimoto-profile.html〕。 1997年、Vリーグ女子・東洋紡オーキスの監督に就任。就任2年目でVリーグ初優勝、日本リーグ時代を通じて初めて、自分の指揮する男女チームを優勝に導く。〔現在男女チーム優勝監督は、柳本と柳本の高校及び実業団(新日鐵)の後輩である真鍋政義の2名である。〕 2003年2月、全日本女子代表監督に就任〔http://web.archive.org/web/20030116105516/http://www.yomiuri.co.jp/06/20030115ie01.htm〕。吉原知子をキャプテンとして全日本に復帰させ、大山加奈、栗原恵ら若手選手を積極的に起用するなど大胆な策を見せた。同年11月開催のワールドカップでは、強豪のキューバから金星を挙げ5位となる快進撃を演じ、翌2004年5月開催のアテネオリンピック世界最終予選では開幕6連勝を果たして、2大会振りの出場権を獲得した。同年8月開催のアテネオリンピックは5位の成績を残した。 オリンピック終了後、監督辞任を示唆したが、協会に慰留される形で続投する事となった。2006年10月から11月にかけて日本で開催された世界選手権では6位、2007年ワールドカップは7位に終わったが、2008年5月開催の北京オリンピック世界最終予選において、開幕6連勝を果たし、2大会連続の出場権を獲得。同年8月開催の北京オリンピックにおいて、前回大会と同じく5位の成績となった。 在任期間が6期となったことから、2008年12月1日、日本バレーボール協会が5日付で全日本女子代表監督を退任させることを発表した。後任は後輩の眞鍋政義。 2010年に朝原宣治らとアスリートネットワークを結成。4月より、芦屋大学特任教授。 現在はバレーボール中継の解説者を務めている。2013年2月、大阪市立桜宮高等学校のスポーツ指導刷新のために「桜宮高校学校改革担当」に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳本晶一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|