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柳本 賢治(やなぎもと かたはる、生年不明 - 享禄3年6月29日(1530年8月2日))は、戦国時代の武将。弾正忠。父は波多野秀長。兄に波多野稙通。弟に香西元盛。細川高国に仕えていた摂津分郡守護の細川尹賢から偏諱を授与されて賢治と名乗る。 大永6年(1526年)、細川高国の家臣であった実弟の香西元盛が細川尹賢の讒言を信じた高国に殺害されると、賢治や兄稙通は阿波の細川晴元・三好元長らと呼応し反乱を起こし、高国の追討軍を神尾山城に籠り撃退する。翌7年(1527年)に晴元・元長らと共に高国と合戦(桂川原の戦い)をし高国を打ち破る。高国や12代将軍足利義晴を京都から近江へ追い出した上で、義晴の弟足利義維を堺に迎え、堺公方として擁立した。 その後、享禄元年(1528年)には元長と対立し、晴元に讒言し元長を阿波に追いやり、元長の与党である赤沢幸純や伊丹元扶を攻めるため大和や摂津に出陣した。巻き返しを図った高国が、縁戚の伊勢北畠氏に上洛を要請し、備前の浦上村宗を頼り畿内を脅かすと、賢治は義晴との和睦を主張したが、義維と晴元に拒絶され、剃髪する。 享禄3年(1530年)、別所就治の要請に応じ、浦上氏方の依藤氏を攻撃するため播磨に出陣したが、依藤城を攻撃中(依藤城の戦い)、東条谷の玉蓮寺の陣中で死去。自害したとも暗殺されたとも言われている。 子に甚次郎がいたが、享禄5年(1532年)1月22日に居城の京都三条城で元長率いる阿波軍に討ち取られた。また、家臣の山村正次は晴元に従い、後の享禄・天文の乱と山科本願寺の戦いに従軍している。 == 参考文献 == * 今谷明 『戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名』洋泉社(MC新書)、2007年。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳本賢治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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