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柳沢 保申(やなぎさわ やすのぶ)は、幕末から明治期の大名、華族。大和郡山藩の第6代(最後)の藩主。郡山藩柳沢家7代。藩主としてよりの事蹟より、明治以降の奈良県の繁栄に貢献した業績のほうが高く評価されている人物である。 == 生涯 == 弘化3年(1846年)3月25日、第5代藩主柳沢保興の三男として郡山城で生まれる。嘉永元年(1848年)に父が死去したため家督を継いだ。文久元年(1861年)5月28日、東禅寺のイギリス公使館が浪士に襲撃されたとき、それを防いだ功績で時の女王ヴィクトリアに賞賛された。文久3年(1863年)の天誅組の変鎮圧でも功績を挙げている。 しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、官軍に協力して東北戦争に参加し、主に後方の輜重部隊の役割を果たしている。このとき、松平姓を捨てて柳沢姓に戻している。明治2年(1869年)6月17日、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。明治17年(1884年)に伯爵となり、明治18年(1885年)3月には久能山東照宮宮司となる。 廃藩置県以後は産業の発展、および救済に力を入れ、明治20年(1887年)には柳沢養魚研究場を設立し、金魚の研究につとめ、明治26年(1893年)には産業の発展を目的に郡山紡績会社を創立させて、資本金の10分の1を出資している。また、教育振興にも熱心で、現奈良県立郡山高等学校に多額の金品と土地を提供した。 明治23年(1890年)には松平氏墓所の修築を行っている。 明治26年(1893年)10月2日、郡山旧邸内で死去した。享年48。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳沢保申」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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