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柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。 == 生涯 == === 出生から館林藩士時代 === 柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し〔柳沢氏の系譜については西川広平「柳澤家の系図編纂と武田家」『山梨県立博物館 研究紀要 第3号』、2009〕、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。武田氏の滅亡後、武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、柳沢氏は吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官した。柳沢氏は土屋氏と並んで、武田遺臣から近世大名化した一族として知られる。 万治元年(1658年)12月18日、吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれる〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。母は安忠の側室である佐瀬氏(了本院)。了本院は安忠の所領がある上総国一袋村の出身で、安忠正室・青木氏の侍女となる〔『柳沢吉保と甲府城』、p.142〕。了本院は吉保出産後に実家へ戻ったため吉保は安忠正室・青木氏のもとで養育されたが、後に吉保は了本院の存在を知ると江戸で呼び寄せた〔『柳沢吉保と甲府城』、p.142〕。吉保は長男ではあったが父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫(父・安忠の娘婿)である信花が養嗣子となって継いだ。 寛文4年(1664年)12月18日、館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見する〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。寛文12年(1672年)に甲斐国恵林寺において行われた武田信玄百回忌の法要においては、父安忠とともに奉加帳に名を連ねている〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。同年11月15日には家臣・曽祢貞尅の介錯で半元服を行う〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。翌寛文13年(1673年)11月15日に元服する〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。 延宝3年(1675年)7月12日には父・安忠の致仕に際して家督を相続し、保明(やすあき)と改名する〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。家禄530石〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。小姓組番衆となり、同年12月18日には旗本・曽雌盛定の娘・定子と婚約する〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。延宝4年(1676年)2月18日には定子と婚姻する〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。延宝5年(1677年)には曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵に参禅し、公案を授かっている〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。同年6月16日には安忠正室の青木氏が死去している〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳沢吉保」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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