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柳沢 安吉(やなぎさわ やすよし)は、江戸時代の武士。江戸幕府旗本。柳沢信俊の3男。母は石原昌明の娘。通称は信文のち孫左衛門。子に柳沢信安、柳沢吉次、柳沢安冶、柳沢信花らがいる。妻は、窪嶋孫兵衛の娘。 安吉の致仕後、長男・信安はすでに没していたため孫の時憲が家督を継いだ。 なお、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の元で側用人として活躍した柳沢吉保は、弟・安忠の子である。 ==略歴== ※日付は旧暦 * 慶長18年(1613年) - 将軍徳川秀忠に初御目見え。160石を与えられる * 慶長19年(1614年) - 大坂冬の陣に供奉。その最中に父・信俊が病死したため帰還後、家督相続(230石)。先に得た160石は弟安忠に与える * 元和8年(1622年) - 徳川忠長に仕える。忠長改易の後は浪人となる * 寛永17年(1640年) - 幕府に再出仕を命じられ、富士見宝蔵番となる * 寛永18年(1641年)11月15日 - 知行地を下総国匝瑳郡に移される * 寛永20年(1643年)8月31日 - 竹千代(のちの将軍徳川家綱)付きとなり、三丸番を務める * 寛永20年(1643年)12月18日 - 知行230石を蔵米230俵に改められる * 慶安3年(1650年)8月23日 - 西丸広敷番頭となる。のち本丸に異動 * 万治2年(1659年)12月24日 - 200俵加増される(都合430俵) * 寛文6年(1666年)3月24日 - 高齢のため辞職。寄合となる * 貞享2年(1685年)7月11日 - 致仕。同日、孫の時憲が家督を継ぐ * 貞享3年(1686年)閏3月6日 - 死去。享年92。月桂寺に葬られる。法名、桃林院殿沢翁孫柳居士 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳沢安吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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