|
柳沢 安弘(やなぎさわ やすひろ、元禄7年(1694年)‐安永8年11月13日(1779年12月20日))は、江戸幕府旗本。武蔵国川越藩士(のち大和国郡山藩士)・柳沢保教(柳沢吉保の姉婿である柳沢信花の養子)の2男。母は播磨国林田藩士・田中小右衛門の娘。柳沢時附の養子。通称は内記、源七郎。号は弘運。 子に柳沢安長、娘(有馬尚久のち日下部定経、妻)らがいる。妻は、時附の娘。 安弘の致仕後、嫡男の安長が家督を継いだ。 ==略歴== ※日付は旧暦 *元文5年(1740年)12月3日-養父時附の致仕に伴い、家督を相続する *寛保1年(1741年)10月28日-西丸小姓組の番士となる *宝暦5年(1755年)8月15日-西丸裏門番頭となる *宝暦5年(1755年)12月18日-布衣の着用を許される(六位相当となる) *明和2年(1765年)3月16日-西丸裏門番頭を辞職し寄合となる。その際に時服3領を拝領する *明和2年(1765年)8月4日-致仕。その際に養老料として300俵を得る。嫡男の安長が家督を継ぐ *安永8年(1779年)11月13日-死去。享年86。月桂寺に葬られる。法名は宗泉 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳沢安弘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|