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柳沢安忠 : ウィキペディア日本語版
柳沢安忠[やなぎさわ やすただ]
柳沢安忠(やなぎさわ やすただ、慶長7年(1602年) - 貞享4年9月17日1687年10月22日))は、江戸時代の武士。柳沢信俊の第4子。母は石原昌明の娘。子に柳沢信花室、柳沢吉保
== 略歴 ==
1614年(慶長19年)に父信俊が病死し、兄安吉が家督を継ぐが、その際に安吉の知行していた160石を得る。1615年元和元年)、兄安吉が病のため、兄に代わって大坂夏の陣に参戦し、目覚しい活躍をする。その後、駿河大納言徳川忠長に仕えた。
1632年寛永9年)、徳川忠長が兄の将軍家光より切腹を命じられ、改易となると安忠は浪人生活を送ることになる。1639年(寛永16年)、再出仕を命じられて上総国山武郡に160石をあてられ、江戸城三之丸奥広敷番頭を命じられる。
1648年慶安元年)、禄70俵を加増されて将軍家光の第4子徳松(後の徳川綱吉)付きを命じられ、10月に徳松が上野国館林15万石に封じられると安忠も館林藩士となった。1651年(慶安4年)以降に三度の加増を受ける。勘定頭として神田屋敷建築などの功があったとされる。
1657年明暦3年)1月に起きた大火では徳川綱吉が住む神田屋敷(後に神田御殿)にも延焼したが安忠の指揮のもと再建を果たす。1675年延宝3年)7月12日、役目を辞して家督を子吉保に譲って隠居。露休と号す。寛文12年(1672年)に甲斐国恵林寺山梨県甲州市塩小屋敷)において行われた武田信玄百回忌の法要では武田遺臣の旗本から浄財が集められているが、恵林寺奉加帳には徳川綱吉家臣33名のうち安忠と小太郎(吉保)の名が連ねられている〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。
延宝3年(1675年)に安忠は致士し、安忠と佐瀬氏(了本院)との間に生まれた吉保が家督を継承する。吉保は小姓組番衆となり、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍となると幕府小納戸役を経て、いわゆる綱吉の「側用人」となる。延宝5年(1677年)6月16日には安忠正室の青木氏が死去する〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。天和元年(1681年)12月20日に吉保は生母である了本院を江戸へ引き取っている〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。天和3年(1683年)6月25日には、安忠子息の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩を行い殺害される事件が発生している〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。
1687年(貞享4年)9月3日には安忠の孫にあたる吉保嫡男・吉里が誕生。同年9月17日に安忠は死去する〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。享年87〔『柳沢吉保と甲府城』、p.136〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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