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柳沢泰典 : ウィキペディア日本語版
柳沢泰典[やなぎさわ やすのり]
柳沢 泰典(やなぎさわ やすのり、1945年 - 1999年8月22日<社会>甲子園の死に「労災認定」=学法石川高・柳沢総監督 読売新聞2002年1月31日記事。〕)は、神奈川県横浜市出身の元アマチュア野球選手高校野球指導者
== 経歴 ==
1945年〔大学を卒業し、学法石川高校に着任した時点(1967年4月1日時点で22歳)の年齢から、1945年1月1日4月1日の間に生まれた。〕、横浜市に生まれた。日本大学高等学校(高校時代は甲子園出場なし)、日本大学時代は外野手。日大時代のには、春季1部リーグ優勝、第15回全日本大学野球選手権大会に貢献した〔日本大学野球部について(日本大学野球部|NIHON UNIVERSITY BASEBALL TEAM) 〕が、怪我のために選手生活を断念。学生コーチに転身した〔週刊朝日増刊1993年8月10日号31P〕。
3月日本大学経済学部を卒業。そして翌4月学校法人石川高等学校社会科教諭として赴任した。これには柳沢の恩師が学法石川出身でもあり、日大野球部での柳沢の活躍に注目したからだと言われている。社会科教諭とは名目であり、実際は野球部の監督着任が本当の目的だった。当時の学法石川野球部は弱小であり、グラウンドも他のクラブと共用と劣悪かつ悲惨な環境に置かれていた。そんな中でも、柳沢は諦めず「純粋な子供たちに、自分で学んできた野球の全てを教え、必ず甲子園に連れて行く」と強い信念を持っていた。しかし、地元・石川町の人々は「夢みたいなことを言って」と相手にしなかった。部員の士気も低く、監督就任直後の千葉遠征の宿舎で主将から外出を願われ許可すると、野球部員がパチンコ店で喫煙しながら遊興に耽ってしまっていた。遠征から戻った直後、正選手がバイク事故で死亡。柳沢は葬儀のあとの墓地の埋葬(土葬だった)に部員とともに付き添った際、部員一同の校歌斉唱を聴いた。まだ学法石川の校歌を聴いていなかった柳沢は校歌に感銘し、何としてもこの校歌を甲子園で流すと信念を強くした〔報知高校野球2008年7月号96-97P〕。
柳沢は素質のある選手を見つけるために福島県内を歩き回り、遠方の生徒たちは、自分の家に住まわせながら猛練習に明け暮れた。県内の強豪チームは練習試合の相手にも考えてくれなかったため、大型自動車の免許を取り、自ら運転して福島県外へ遠征にしばしば出かけた。また、温かくて美味しい物を食べさせてやりたいとの思いから、大型の電子レンジ(当時の物価で20万円相当はしたという)を購入し、選手を家族同然のように暖かく接した。それを象徴するエピソードとして、まだ発展途上だったに福島大会で3回戦でチームが敗戦したものの、当時のエースに「おまえでないとここまでこられなかった」と労った話がある〔“福島に生きる”患者と地域に恩返し・・石川町で整体院を開業 近内幸雄さん(63)(日本共産党嶺南地区委員会HP) しんぶん赤旗2014年6月23日記事より転載。尚、本人は東日本大震災2011年3月11日)に伴って発生した福島第一原子力発電所事故の訴訟原告団に加わっている。〕。そんな柳沢の努力が実り、チームは少しずつ実力を付けてきた。
そして監督着任から9年後の、遂に念願の甲子園出場(第48回選抜高等学校野球大会)を果たす。これは、前年の1975年の明治神宮大会に初出場し、佐賀商に延長16回(3-4で惜敗)の死闘を演じた事が評価されて物だった。この大会では初戦で、強豪の鹿児島実に0-2で惜敗。同年の福島大会も初制覇し、夏の甲子園にも初出場(第58回全国高等学校野球選手権大会)。初戦で名門中の名門である中京高校(現・中京大学附属中京高等学校)と当たり、大方の予想を覆して0-1と惜敗したものの大健闘した。春夏と強豪校とほぼ互角に渡り合った事で、俄然、学法石川は注目校として脚光を浴びる事となった。そして初出場から7年後の1983年第65回全国高等学校野球選手権大会において、米子東に2-1(延長10回)で勝利し念願の甲子園初勝利を果たした。以後昭和末期~平成初期にかけて福島県内では強豪となり、甲子園の常連校になった。
通算成績は決して褒められた物ではない〔1997年の監督退任までに通算11回(春3回、夏8回)出場しているが、初戦を突破できたのは3回(春1回、夏2回)しかない〈春は2回戦,夏は3回戦進出が最高〉。また試合内容も初出場以降は大敗する事も多く、1983年夏には横浜商に3-19で大敗している。〕が、厳しくも暖かみのある指導で選手はもとより石川町の住民からも愛された。「苦の中に光あり」,「山を越えたら、また山があった」などの独自の語録・哲学でも知られ、「柳沢イズム」と呼ばれる指導でプロ野球選手も数多く輩出(後述)し、名物監督となった。
、30年続けた監督を太田雅弘に譲り勇退。しかし総監督となり、ベンチ裏からチームを支え続けた。そして、2年後の1999年夏、新監督の下でチームは初の甲子園出場(通算では9回目)を果たした。運命の8月14日、初戦(岡山理大付戦。4-5で惜敗。)をアルプススタンドで観戦していた柳沢は、試合終了後にスタンド席で倒れたのである。クモ膜下出血であり、意識が戻らないまま8日後の8月22日兵庫県西宮市の病院で死去〔。54歳の若さだった。死去から15日後の9月6日に、学法石川高校で柳沢家と学法石川高校による合同葬が営まれた〔報知高校野球2000年1月号135P〕。その後、遺族が労災を申請し、2002年1月31日、須賀川労働基準監督署(須賀川市)は柳沢の労災を認定した〔〔2001年12月労働基準法の労災認定基準を改正し、勤務状況の評価期間が「原則、発症前1週間」から「発症前6か月間」に延長され、長期に不規則な勤務や精神的な緊張を伴う業務で慢性的な疲労に陥ったり、ストレスが蓄積したりした場合も過労死と認められるようになった。実は、柳沢は発症前1週間には体調不良で3日間休んだため労働時間が短く、過重な勤務もなかったことから、改正前には認定されなかった。しかし、須賀川労働基準監督署は柳沢の勤務状況を詳しく調べた結果、発症前2か月の月平均残業時間は107時間にも上っており、「甲子園出場の周囲の期待によるストレス,夏の炎天下での指導,16日間にもわたる遠路・甲子園への出張が過労死につながった」と判断したため、労災認定の判断を下した。また、旧基準では対象外だったケースが労災を認められたのは、裁判で係争中に認定された事例(例.急性心不全で死亡した週刊誌「女性自身」(光文社発行)の元編集担当社員を東京・中央労働基準監督署が労災認定した〈柳沢の認定と同月〉)を除き全国で初めての事だった。〕。
柳沢亡き後の学法石川野球部は福島大会ではそこそこ成績を残しているものの、ライバルの聖光学院日大東北の台頭もあって、現在甲子園出場には至っていない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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