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柳澤氏 : ウィキペディア日本語版
柳沢氏[やなぎさわし]

柳沢氏(やなぎさわし)は、日本氏族武士の家系。甲斐武田氏の遺臣で、近世には柳沢吉保(房安、保明)が将軍徳川綱吉に仕え、甲府城主15万1200石となる。
== 概要 ==

柳沢氏は甲斐源氏の一族である甲斐一条氏の後裔を称し、戦国期には甲斐守護武田氏の家臣となり、甲斐国北西部に土着した辺境武士団・武川衆の一員となった〔長野県上田市の生島足島神社所蔵の永禄10年(1567年)8月7日付武田家起請文においては柳沢信勝が青木氏や山寺氏などとともに武川衆として武田家親族衆武田信豊に帰属していることが確認される。〕。その後天正8年(1580年)、柳沢信兼上野国膳城攻めの際に軍令を破り切腹となると、武川衆・青木氏の出身で横手家を継いでいた横手信俊が信兼の名跡を継ぎ、柳沢信俊と名を改めた。武田氏滅亡後、信俊は武田遺臣として徳川家康に仕え、家康の関東移封に伴い武蔵国鉢形に所領を得た。
信俊の死後、嫡男の安吉が家督を継ぎ、初め江戸幕府旗本となるが、元和8年(1622年)に駿河大納言徳川忠長家臣となり、忠長改易の後は浪人となった。しかし寛永17年(1640年)、安吉は幕府より再出仕を命じられ、宝蔵番や本丸広敷番頭等を歴任し、430俵取りの旗本となり、柳沢宗家としてその後も存続した。
また、安吉の次男吉次慶安3年(1650年)に出仕を命じられ、徳川家綱付き小十人となった。子(養子)の信尹の代にはたびたび加増され800石取りの旗本となり、その後も代々勤仕を続け、明治維新を迎えた(柳沢吉次流柳沢氏、柳沢八郎右衛門家)。
一方、信俊の四男安忠は兄・安吉と同様に、徳川忠長家臣を経て浪人となるが、その後館林藩主の徳川綱吉に仕えた。子の吉保は5代将軍となった綱吉に重用され、延宝8年(1680年)に小納戸となったのを皮切りに、その後側用人老中格、大老格に就任し、当時の幕政を主導した。また、吉保は老中格就任と同年の元禄7年(1694年)に武蔵国川越藩7万石の藩主に封じられて初めて大名となった。同14年(1701年)には松平姓を許され、宝永元年(1704年)には、それまでは徳川家一門のみが歴代藩主として就いていた甲府藩15万石の藩主となった。宝永6年(1709年)に綱吉が死去すると、吉保は政治状況の時流を賢く判断して隠居し、嫡男の吉里に家督を譲った。その際に、吉保の四男経隆と五男時睦はそれぞれ1万石の所領を内分分知の形で与えられ、甲府新田藩主となった。
享保9年(1724年)に甲斐一国の幕府直轄領化に伴い、大和国郡山藩に転封となると、吉里は柳沢氏郡山藩15万石の初代藩主となった。また、吉里の郡山藩への転封に伴い甲府新田藩は廃藩となり、新たに経隆は初代越後国黒川藩1万石の藩主に、時睦は初代越後国三日市藩1万石の藩主となった。以後郡山藩をはじめとして3藩ともに明治維新まで存続した。明治17年(1884年)に制定された華族令に伴い、最後の郡山藩主保申伯爵に、最後の黒川藩主光邦と最後の三日市藩主徳忠はそれぞれ子爵となった。
なお、柳沢家と武田氏宗家の高家武田氏とは密接な関係にあり、吉保は武田信玄の次男龍芳(海野信親)の子孫を高家武田家として復活させている〔大嶌聖子「武田家の高家登用とその背景」『武田氏研究』32号、2005〕。また、保申の次男信保は高家武田氏の養子となって当主を継ぎ、以後血筋が途絶えることなく現在に至っている。
2010年11月2日、柳沢氏発祥の地に当たる現在の山梨県北杜市武川町柳沢に「柳沢氏発祥の地」碑が建立され、除幕式が行われた〔柳沢家発祥の地を後世に伝える碑完成 八ヶ岳ジャーナルWEBTODAY 2010年11月6日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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