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柳澤淇園 : ウィキペディア日本語版
柳沢淇園[やなぎさわ きえん]

柳沢 淇園(やなぎさわ きえん、元禄16年7月18日7月18日1703年8月30日)〔通説では宝永元年(1703年)生まれとされる。しかし、淇園当人に該当すると思われる元禄16年7月18日に誕生した産児の易による命名鑑定書が柳沢文庫から発見されたことや、淇園の生年月日を元禄16年7月18日とする新出資料『柳澤権大夫家譜』の考証から、元禄16年が正しいと思われる(堀井寿郎「家督分限帳について」(『柳沢史料集成第三巻・分限帳類集(下)』 柳沢文庫、1994年)。〕 - 宝暦8年9月5日1758年10月6日))は、江戸時代中期の武士文人画家漢詩人服部南郭祇園南海彭城百川らとともに日本文人画の先駆とされる。
幼名は権之助、ははじめ貞貴、元服後は里恭(さととも)と名乗る。後に中国風に修して柳里恭(りゅうりきょう)と名乗ることを好んだ。代々権太夫と称し、は広美(こうび)もしくは公美、淇園と号し、ほかに竹渓、玉桂の別号がある。よく知られた淇園の号は、40歳頃から使用したと推測される。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
里恭は、大老格で甲府藩主で柳沢吉保の筆頭家老であった曽根保挌〔従来、保と読まれていたが、保の誤りであることが指摘されている(堀井(1994))。〕の次男として、江戸神田橋の柳沢藩邸に生まれる。父・保挌は 、吉保元服の理髪役を務めるなど最も早から吉保に仕えた股肱の臣で、早期に柳沢姓を許され、五千石の知行と吉保の一字をも与えられるほど寵愛されていた。
このような主君との関係は次世代も続き、里恭の名は吉保の子で主君 吉里一字拝領した。里恭は既に7歳の時、父の家禄を兄保誠と二分して二千石を受け継ぎ馬廻役に任ぜられており、特別扱いされた家臣であった。なお、母は山崎勾当の弟子であり、将棋を嗜んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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