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桐生親綱[きりゅう ちかつな] 桐生 親綱(きりゅう ちかつな、生年不詳 - 慶長3年(1598年)または寛永9年(1632年)?)は、戦国時代の上野国の戦国大名。佐野昌綱の子(次男や4男とも)、養父は桐生助綱。子に桐生之綱がいる。桐生氏は藤原氏秀郷流足利族。 == 生涯 == 下野国の戦国大名・佐野昌綱の子として誕生。 上野国東部の桐生地方を治めた戦国大名・桐生助綱の養子となり、永禄13年(1570年)に養父・助綱が死去すると家督を継いだ。親綱は古くからの重臣の谷右京や大屋勘解由左衛門などを無視して、実家である佐野氏からの後見役の荒井主税之助、茂木右馬之丞、山越出羽守、津布久刑部の4人に仕置を任せ、これまでの桐生氏の諸法度を廃止し、新法を行って暴政を領内に敷いたので、将士民心は離反した。桐生氏の行く末を危惧した執事(家老)の里見勝弘(新田氏一族、実堯の末裔とする)らが諫言するが、親綱に恨まれて自害させられた。また、新田太田の由良氏と、渡良瀬・桐生川の水利を巡って対立を深めた。 元亀3年(1572年)3月、に由良氏家臣・藤生善久が居城・柄杓山城を攻撃。城は陥落し、親綱は実家の佐野に逃亡し、ここに戦国大名としての桐生氏は滅亡した。なお、滅亡した桐生一族の一部は、薮塚滝入(現・群馬県太田市)に移り住んだといわれ、現在でも多くの桐生姓が存する。 天正6年(1578年)に由良成繁が死去すると桐生城下に忍び込み、桐生城の奪還を画策するが応ずるものはいなかった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桐生親綱」の詳細全文を読む
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