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桑原頼太郎 : ウィキペディア日本語版
錦小路頼徳[にしきのこうじ よりのり]
錦小路 頼徳(にしきのこうじ よりのり、天保6年4月24日1835年5月21日)-元治元年4月27日1864年6月1日))は、幕末尊皇攘夷派公家は一貫。
== 生涯 ==
唐橋在久の子として生まれる。のち、錦小路頼易の養嗣子となる。1851年嘉永4年)に叙爵を受け、2年後に大和権介に任じられる。1858年安政5年)の廷臣八十八卿列参事件に参加し、以後は尊皇攘夷派として活躍する。1862年文久2年)、従四位右馬頭。同年、公武合体派久我建通の弾劾に加担、翌年2月、壬生基修とともに庶政刷新と攘夷貫徹を求める建言を提出して国事寄人に任じられ、孝明天皇の攘夷祈願の為の石清水八幡宮行幸に随従した。
同年の八月十八日の政変によって失脚し、三条実美壬生基修三条西季知東久世通禧四条隆謌澤宣嘉とともに長州藩に落ち延びる(七卿落ち)。これによって官位剥奪の処分を受ける。後に桑原頼太郎の変名を用いて長州攘夷派と行動をともにするが、赤間関砲台視察中に病に倒れ、同地で30歳の生涯を閉じた〔なお、七卿のうち澤宣嘉は生野の変で決起したものの失敗し、再度長州藩領に戻るが、他の五卿は筑前大宰府延寿王院に移転した。〕。没後、王政復古時に官位を復され、1870年明治3年)に正四位を贈られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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