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桜庭光康(さくらば みつやす)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。戦国大名、南部氏の家臣。宇多源氏佐々木流。南部家譜代の武門として活躍した。子に桜庭直綱、北信景などがいる。 == 概略 == 桜庭家は南部氏初代、南部光行の奥州下向以前からの譜代の家柄であり、三上、小笠原、福士氏と並んで南部四天王と称された〔『南部根元記』〕。 南部安信の代、南部氏と対立ししばしば合戦を起こしていた閉伊郡の豪族を、知略を用いてこれを服属させるなど閉伊郡平定に大功があった〔『参考諸家系図』〕。そのため後世の桜庭家の家臣には閉伊地方出身の者が多かったという。 また永禄8年(1565年)、鹿角に派遣された光康は、侵攻してきた安東愛季を撃退し〔『奥南落穂集』〕、元亀3年(1572年)、石川高信の津軽平定にも従軍した〔『祐清私記』〕。 晩年、閉伊郡を知行し、千徳城のあった千徳村を知行地とした〔『内史略』〕。周辺の長根寺、善勝寺に寺領地を寄付したという〔長根寺物語 p71〕。 光康が保護した寺である真言宗玉王山長根寺(岩手県宮古市長根)には、宮古市指定文化財となっている桜庭家累代の墓碑(桜庭氏廟所)が存在している〔ここの墓碑は盛岡にあるとされる桜庭家墓地の遥拝所の意味で墓石を同じに形どって建立して、供養を執行したと伝わる。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桜庭光康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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