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桜庭直綱 : ウィキペディア日本語版
桜庭直綱[さくらば なおつな]

櫻庭 直綱(さくらば なおつな)は戦国時代から江戸時代初期の武将南部氏家臣。石高は2,000石。南部家譜代の重鎮として活躍し、以後廃藩まで盛岡藩家老職を受け継いだ近世櫻庭氏の祖である。
== 生涯 ==
櫻庭家は南部氏初代、南部光行の奥州下向以前からの譜代の家柄であり、三上、安芸、福士氏と並んで南部四天王と称された。(『南部根元記』)
初め佐々木与三郎と名乗っていたが、天正10年(1582年)、元服の際、主君南部信直から「直」の一字と来国次の太刀を賜り直綱と名乗る。
(『宝翰類聚』)
天正19年(1591年九戸政実の乱では主君の意を受けて領内諸豪族の説得に当たった。(『二戸川嶋家文書』)
慶長5年(1600年和賀忠親の反乱である岩崎一揆では馬上の侍大将として70人の部隊を率い、南部軍の主力として戦っている。(『聞老遺事』岩崎御出陣人数定)

また、この戦いの出陣軍令書に北信愛、楢山五佐衛門直隆、直綱の連盟があり、この頃には南部家中の重要な地位を確立しているものと考えられる。
慶長6年(1601年)、主君の命を受けた直綱は、伊達氏と結んだ遠野地方の豪族、阿曽沼広長を討つため350人の部隊を率いて阿曽沼軍と戦い、これを打ち破っている。(『南部史要』)
慶長17年(1612年徳川秀忠仙洞御所造営の普請を命じるため江戸の南部藩邸を訪れた際、直綱も南部利直、重直、八戸直政、北直継と共に会談に参加している。〔出典:『岩手県史』第三巻〕
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では南部軍は片桐且元の居城茨木城の破却を行ったが、北信景大坂城籠城事件があったためか大坂夏の陣では参陣を許されなかった。
元和元年(1615年)家老に就任。晩年は政務、財務の取締も行っていた。(南部藩『御系譜』)
元和2年(1616年閉伊郡花輪村に後の盛岡藩主となる南部重信が生まれると、その確認のため「御検視」として向かう。(『小本家記録』)
元和6年(1620年)卒去。家督は長男の直際が継いでいる。岩手県宮古市長根にある長根寺の櫻庭家累代の墓碑の中に、直綱の墓碑が存在する。(宮古市指定文化財)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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